数日前、卒業生としてではなく、何人かの学生を突然、送ることになった。大学で4年間様々な科目を学んで、就職活動をして卒業して行けば、よい仕事に就ける可能性はおそらく高まる。彼らはその道を歩むことはなかった。
本学は「就職に強い」を就職率の高さで分かりやすく売り出しているが、もっとも重要なポイントは単に数字だけでなく、キャリアセンターが一人一人の学生に丁寧に寄り添ってくれるところにある。より良い企業を目指すための支援だけにとどまらず、就職活動をするのが難しい学生の伴走支援もしてくれる。ただ、彼らはそこに繋がることはなかった。もちろん、人生は万事塞翁が馬なので、大学を去った彼らの歩む道がそれぞれにとって良かったのか悪かったのかは誰にも分からない。それに私は専攻分野が労働問題(社会政策)でもあるので、彼らの就労支援のサポートを続けようとは思っている。しかし、何かもっと声をかけることは出来なかったかという思いは残るし、それを忘れてはいけないとも思う。
私は三年前に大阪に来てすぐに、縁あって西成高校とつながることになって、それ以来ともに学び合ってきた。私が2年数か月、コロナ初期を除いて毎週続けて来たMinamiこども教室での外国ルーツの子どもたちの学習支援もそこから始まった(2020年秋からはこどもひろばにも参加している)。西成高校は「西成」という名前で差別的に語られることもある。近年もテレビ番組がきっかけに炎上したこともあったし、私自身も社会連携事業を通じて西成高校と関わりがあることを知ると、「先生、よくやりますねぇ」という反応をもらうことも決して少なくない。しかし、西成高校は伝統的な人権教育をベースに反貧困学習を展開したり、全国で初めて居場所カフェを開いたり、その教育実践に関心を持っている人たちの間ではよく知られているし、現在進行形でエンパワーメントスクールとして走り続けている。西成高校は卒業後就職する生徒が多く、社会に出る前の最後の学校という機能においては、大学と共通するところも多い。そうした背景から、西成高校と連携してキャリア教育にかかわっているAダッシュ創造館の方と校長先生に経済学部のFD研修会でお話しいただき、共通する課題を考えたこともあった。
私は経済学部ではくらしの経済パッケージに属して「社会政策」をメインに教えている。唐突なようだが、私は一つの教育の指針となる考え方を自分の中に持っている。私には教育関係の分野の研究仲間の友人もたくさんいるけれども、このことについて今まで語り合ったこともなかった。それは海後宗臣が教育の基本構造として提示した人格陶冶の考えである。別に海後の議論をアカデミックに突き詰めたわけではなく、ただ若いときに読んだまま青臭く自分の指針として持ってきたに過ぎない。そして、それはより具体的に言えば、専門の研究者として一線であること、本物の研究者としての姿を見せることだと思ってきた。だから、講義内容はすべてを理解してもらうことよりも、自分に必要なところを受け取ってもらえるように、出来る限り多くの情報を提供するように心がけて来た。それはときには、社会保険のことであったり、就労支援のことであったり、人に相談をするということであったり、多岐にわたるし、直接的にこれから学生の「くらし」の中で役立つ内容も含まれているはずだ。しかし、今ではこうした姿勢が最も大事な基準ではないと考えている。それに代わるものは何か。その一つの導きが「居場所」という考え方であった。
「居場所」は福祉や教育分野で使われるいわゆるバズワードである。現場でも研究の議論でも多様な使い方がされている。おそらく、多様に使われ、広く流通していることにはそれ自体に固有の意味があり、それは興味深い研究テーマになるだろう。ただ、私が考察したいのはそういう問題ではない。私は学習支援の他にNPO法人FAIRROADに伴走する形で居場所事業にも関わり、そうした現場での実践の中でこの問題を考えて来た。その答えはこれからも問い続けていくが、結局、今のところ、私が子どもたちや学生(そして大人であっても結局は同じことだが)と接するときの基本的な考え方は、その存在を大切にすることだと考えている。時には自分を大切に出来ないその本人以上に。その背景にカウンセリングの考え方や様々なものを引っ張ってくることも出来るが、ここでそれは必要ないだろう。受け入れられたという経験は心のスペース(≒余裕、居場所)になり、それは湯浅誠がいう精神的な「溜め」や人間関係の「溜め」の土台になり得ると思う。それはそのまま福祉の基盤でもある。ただし、私自身がそうあり得ているかどうかは、私が決めることではなく、向き合った相手が教えてくれるだろう。
本学は「就職に強い」を就職率の高さで分かりやすく売り出しているが、もっとも重要なポイントは単に数字だけでなく、キャリアセンターが一人一人の学生に丁寧に寄り添ってくれるところにある。より良い企業を目指すための支援だけにとどまらず、就職活動をするのが難しい学生の伴走支援もしてくれる。ただ、彼らはそこに繋がることはなかった。もちろん、人生は万事塞翁が馬なので、大学を去った彼らの歩む道がそれぞれにとって良かったのか悪かったのかは誰にも分からない。それに私は専攻分野が労働問題(社会政策)でもあるので、彼らの就労支援のサポートを続けようとは思っている。しかし、何かもっと声をかけることは出来なかったかという思いは残るし、それを忘れてはいけないとも思う。
私は三年前に大阪に来てすぐに、縁あって西成高校とつながることになって、それ以来ともに学び合ってきた。私が2年数か月、コロナ初期を除いて毎週続けて来たMinamiこども教室での外国ルーツの子どもたちの学習支援もそこから始まった(2020年秋からはこどもひろばにも参加している)。西成高校は「西成」という名前で差別的に語られることもある。近年もテレビ番組がきっかけに炎上したこともあったし、私自身も社会連携事業を通じて西成高校と関わりがあることを知ると、「先生、よくやりますねぇ」という反応をもらうことも決して少なくない。しかし、西成高校は伝統的な人権教育をベースに反貧困学習を展開したり、全国で初めて居場所カフェを開いたり、その教育実践に関心を持っている人たちの間ではよく知られているし、現在進行形でエンパワーメントスクールとして走り続けている。西成高校は卒業後就職する生徒が多く、社会に出る前の最後の学校という機能においては、大学と共通するところも多い。そうした背景から、西成高校と連携してキャリア教育にかかわっているAダッシュ創造館の方と校長先生に経済学部のFD研修会でお話しいただき、共通する課題を考えたこともあった。
私は経済学部ではくらしの経済パッケージに属して「社会政策」をメインに教えている。唐突なようだが、私は一つの教育の指針となる考え方を自分の中に持っている。私には教育関係の分野の研究仲間の友人もたくさんいるけれども、このことについて今まで語り合ったこともなかった。それは海後宗臣が教育の基本構造として提示した人格陶冶の考えである。別に海後の議論をアカデミックに突き詰めたわけではなく、ただ若いときに読んだまま青臭く自分の指針として持ってきたに過ぎない。そして、それはより具体的に言えば、専門の研究者として一線であること、本物の研究者としての姿を見せることだと思ってきた。だから、講義内容はすべてを理解してもらうことよりも、自分に必要なところを受け取ってもらえるように、出来る限り多くの情報を提供するように心がけて来た。それはときには、社会保険のことであったり、就労支援のことであったり、人に相談をするということであったり、多岐にわたるし、直接的にこれから学生の「くらし」の中で役立つ内容も含まれているはずだ。しかし、今ではこうした姿勢が最も大事な基準ではないと考えている。それに代わるものは何か。その一つの導きが「居場所」という考え方であった。
「居場所」は福祉や教育分野で使われるいわゆるバズワードである。現場でも研究の議論でも多様な使い方がされている。おそらく、多様に使われ、広く流通していることにはそれ自体に固有の意味があり、それは興味深い研究テーマになるだろう。ただ、私が考察したいのはそういう問題ではない。私は学習支援の他にNPO法人FAIRROADに伴走する形で居場所事業にも関わり、そうした現場での実践の中でこの問題を考えて来た。その答えはこれからも問い続けていくが、結局、今のところ、私が子どもたちや学生(そして大人であっても結局は同じことだが)と接するときの基本的な考え方は、その存在を大切にすることだと考えている。時には自分を大切に出来ないその本人以上に。その背景にカウンセリングの考え方や様々なものを引っ張ってくることも出来るが、ここでそれは必要ないだろう。受け入れられたという経験は心のスペース(≒余裕、居場所)になり、それは湯浅誠がいう精神的な「溜め」や人間関係の「溜め」の土台になり得ると思う。それはそのまま福祉の基盤でもある。ただし、私自身がそうあり得ているかどうかは、私が決めることではなく、向き合った相手が教えてくれるだろう。