京極ゼミ、西本ゼミが合同で「稲村の火の館」&「中野BC」へ視察研修

 経済学部 西本ゼミと京極ゼミは、2014年6月21日に合同で視察研修に行きました。行き先は、和歌山県にある「稲村の火の館」と「中野BC」です!
 「稲村の火の館」は、「濱口梧陵記念館」と「津波防災教育センター」から成り、安政の大地震津波の時、紀州広村(現在の広川町)の村人を津波から救った濱ロ梧陵の功績を学ぶとともに、津波に対する知識や防災に関する心構えを身につけることができる施設です。
 また、「中野BC」では杜氏の技と経験を生かした酒造りについて知ることができます。訪問がちょうど梅酒の漬け込み時期ということもあり、タンクについた覗き窓から漬け込んでいる梅の実の状態を見ることもできました。

京極ゼミ生の感想

〜稲むらの火の館 『津波防災教育センター』〜
(山口杏奈・寺戸美春・前田兼吾)
「津波てんでんこ」という言葉が強く印象に残った。「津波が来たら、取る物も取り敢えず、肉親にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」という意味だが、自分さえ助かればよいという利己主義とは違う。家族や地域で予め互いの行動をきちんと話し合っておき、離れ離れになった家族を探したり、とっさの判断に迷ったりして逃げ遅れるのを防ぐことが前提になっている。家族や大学にいるときなどの約束事をきちんと決めておこうと思った。
(伊藤春菜・内門悠)
東日本大震災のニュースで津波の恐ろしさはわかっていたつもりだったが、3Dシアターの映像や防災体験室の津波シミュレーションはスケールが大きくて迫力があった。もしもの時の準備を日頃から考えなければいけないと感じた。

〜稲むらの火の館 『濱口梧陵記念館および語り部案内』〜
(大野倫弘・三谷知子・岩井柊登)
濱口梧陵は、安政大地震(1854年)による津波襲来のとき率先して住民を避難させ、夜は当時貴重な財産であった稲わらに火を放ってまで全員を高台に避難させたことで有名である。それ以上に彼が凄いのは、震災後に巨額の私財を投じて、高さ5m、幅20m、長さ600mの大堤防(広村堤防)を築いたことである。斜面を緩やかにして避難を易しくしたり、海側には松を植樹(防風林)、土手にはハゼの木(和ロウソクの原料)を植えた。これには100年後の津波に備えるためと、もう一つ大きな理由があった。工事のために家や財産をすべてなくした村民を雇い、村から出て行く人を作らなかった。単にお金を渡すのではなく、仕事に対する賃金として渡すことで、村の復興に大きく貢献したのであった。

〜中野BC株式会社 酒蔵見学〜
(藤川裕也・宮竹圓・藤原一継)
日本酒は、精米のときの削り加減で種類が変わるということを初めて知った。最も削り込んだ米で作られたのが、大吟醸酒だ。酒を造る工程にもかなりの時間と手間がかかることにも驚いた。また、季節がら梅酒の仕込中で、工場の中に梅の甘い香りが広がっていた。

防災の先駆者「濱口梧陵」 久保田悠斗(西本ゼミ)

 1820(文政3)年、紀州有田郡広村に防災の先駆けともいわれる「濱口梧陵」は生まれました。安政元年11月5日(1854年12月24日)、濱口梧陵34歳の時に安政南海地震の津波が紀州有田郡広村に襲来し、逃げ遅れて津波にのまれた村人がいました。海に流された村人たちは、動くことができませんでした。なぜなら、津波が村を襲ったのは夜だったからです。周りが真っ暗でどの方向に逃げればいいのかわからなかったのです。海に流された村人を助けたかった濱口梧陵は、道に沿って並んでいた藁の山(稲むら)に火をつけ、安全とされている高台の広八幡神社までの避難路としました。当時、藁は草履や藁葺き屋根として使われる非常に貴重なものでした。しかし、濱口梧陵は惜しむことなく藁の山に火を放ち、それに気づいた村人は速やかに広八幡神社に避難することができ、結果、村人を救うことができたそうです。

 しかし津波の被害で村は壊滅状態になり、多くの村人は住む家や職を失いました。濱口梧陵は故郷の復興のために全身全霊で働き、被災した人のために住める小屋をつくらせたり、農機具・漁業道具の配給をしたり、各方面に復旧作業にあたりました。また、次の津波による被害を最小限に抑えるために全長約700メートル、高さ約5メートルの防波堤の築造にも取り組みました。このような復旧作業などを村人自身にさせることによって村を元通りにするとともに職を失った人たちに職をあたえたそうです。また、このとき濱口梧陵は私財で働いた村人に賃金を払ったとされています。
 これほど人のために行動し人を思いやることのできる濱口梧陵はすごいと思いました。災害などで自分に身の危険を感じたら、まず一番に自分の身を守ろうとすると思いますが、濱口梧陵は一番に村人たちのことに気をかけ、助けようとしました。災害大国である日本に住んでいる以上、津波が襲ってくることはいつ何時も0パーセントではないと思います。だから私たちは濱口梧陵がしたように防災を行い、いつ来るかわからない災害に備えることが大切だと思いました。防災をすることによって被害を最小限にでき、なおかつ災害などの恐怖を和らげることができる、そういう意味で防災を行うことはとても重要だと思います。今回のフィールドワークで「稲むらの火の館」津波防災教育センターにいって災害のすさまじさや恐ろしさを改めて感じることができ、本当に良かったと思います。人間は忘れる生き物で時間が経てば恐怖なども薄れてしまいます。だから定期的にこのようなところで実際に防災を学び、防災の大切さを考え直さないといけないと改めて思いました。

合言葉は「てんでんこ」 木村萌(西本ゼミ)

 6月21日の視察研修で、「稲むらの火の館」を訪問しました。到着後、まず最初に3D津波映像シアターで津波が起きた時の再現ドラマを見ました。その中で「津波てんでんこ」という言葉がでてきました。これは、津波がきたら着のみ着のまま、家族にも構わず、とにかく自分が逃げることだけを考えて避難するという意味だそうです。一見、ひどい話だと思いましたが、この言葉の裏には、災害はいつどこで起こるかはわからない為、緊急時に備えて事前に家族で避難場所、そこまでの経路を決めておく、そして、実際に災害が起きた時は、自分がどこに居ても、なにをしていても、家族のことを信じてそれぞれ各自で、あらかじめ決めていた集合場所に避難するという意味が込められているそうです。
 2011年に起きた東日本大震災の時も、自分は助かったが、家族がまだ家にいるのではないかと家族を探しに行き、津波に巻き込まれて命を落としてしまった人も多くいたそうです。「津波てんでんこ」は確かにすごく勇気のいることだとは思いますが、地震大国の日本だからこそ、この言葉の意味をより多くの人が知り、「津波てんでんこ」を多くの人が実行することで、次からの緊急災害時の対策方法や、死亡者数、行方不明者数、復興状況さえも変わってくるのではないかと思いました。

 次に、「濱口梧陵」についてのドラマを見ました。安政元年、1854年に濱口梧陵がたまたま、和歌山県の広村に帰郷していた時に遭遇した大地震のときのお話でした。この時、濱口梧陵は自分自身の財や地位を使い村人たちのために動きました。津波に巻き込まれ、まだ安全な場所に避難できていない村人のために、道が見えるように稲むらに火をつけて道を照らしました。この時代、稲むらはとても貴重なものだったそうです。
 地震がおさまり、津波も完全にひいたあと、村人たちは家をなくし、仕事もなくなってしまいました。そんな村人たちのために、また津波が襲ってきたときのための堤防づくりを仕事として村人たちに与え、働きたい者は老若男女問わず雇い、一日の仕事に給料を与え、村人たちが以前のように生活できるようにしたそうです。私はこのお話を聞いて、自分自身の地位やお金をここまで村人たちの為に使うことのできる人がこの時代にいたのだと感心しました。
 この視察研修にきて、改めて津波の恐ろしさを知ることができました。また、昔の津波に対する対策や知恵なども学ぶことができました。これからは、この視察研修での経験を生かし、今後につなげていけるように、私自身の周りの人にも視察研修で学んだことを伝えようと思います。

日本一の酒造会社〜中野BC〜 大泉直輝(西本ゼミ)

 6月21日に西本ゼミと京極ゼミ合同で和歌山県の酒造会社「中野BC」に行きました。酒造会社までの道のりは遠く到着すると自然と中野BCしかないというくらい山の中でした。工場では日本酒、焼酎、梅酒を製造しており、中でも梅果汁の生産量は日本一で他社にも供給するほどのすごい会社でした。
 ガイドさんがついてくれて施設を案内してもらいました。中に入ると梅の良い香りがして社内のいたるところにカゴいっぱいの梅がおいてありました。工場の中では23000ℓ以上も梅酒が入るタンクがたくさんありました。タンクに窓がついていて中を見ることができるようになっていました。普段では決して見ることのない量の梅が漬けられた梅酒を見ることができました。梅酒の製造過程を見学できることはなかなかないので、とても良い体験ができました。
 一方、日本酒は貯蔵庫に15度という徹底した温度管理のもとで管理されているため入ることはできませんでしたが、そこには酒造りの誇りとプロの姿を見ることができました。日本酒の主力商品である「紀伊国屋文左衛門」や「長久本醸造」があるにも関わらず原材料である米の割合を変えてより飲みやすく、美味しい日本酒を造る研究もしているそうです。

 最後には売店でたくさんの種類お酒を試飲することができ、ノンアルコールの梅酒や柚子酒、40度の酒なども飲むことができました。めったに飲むことができない酒だと思い、全部の種類を飲んでみましたが、どれも美味しく飲みやすかったです。
 また、そこには梅を使った化粧水やサプリメントの試供品もありました。このサプリメントは梅の成分を使って作られており、花粉症やアトピーなどに効果が期待できるそうです。中野BCでは梅の成分である「ムメフラール」がインフルエンザウイルスに対して感染と蔓延の両方を予防できるということを発見し、酒類以外の研究にも力を入れているそうです。
 梅ジュレップというノンアルコールシロップもありました。これはコーラや紅茶など家にある手軽なもので美味しく梅酒の風味を味わえる商品だそうです。和歌山県の名産品の梅をより美味しく皆に知ってほしいという思いが伝わってきました。一緒に行った先生や先輩方は多くの商品を購入していました。
 帰るときに「梅のジュレ」というゼリー状の商品をもらいました。これはこんにゃく粉を使ったヘルシー商品でアイスに混ぜたり、ワッフルにかけたりとデザートに合う梅のソースでした。私はそのままで食べましたがとても美味しかったです。
 「中野BC」は酒造会社ですが、和歌山県の名産の梅を取り入れ、日々、研究を重ねて新しい製品の開発を試みている企業努力を今回、垣間見ることができ、とてもよかったと思います。

中野BC視察研修で学んだこと 荒木健太(西本ゼミ)

 私は平成26年6月21日、和歌山県の中野BCに視察研修に行ってきました。私自身、今回の視察研修の目標をたてて参加しました。視察とは現地に行きその実際の様子を調べることであり、私は中野BCとはどのような会社なのかという実態を見せていただく、これが目標でした。
 中野BCが酒造メーカーということは事前の情報で把握しており、二十歳になったばかりの私にはとても興味がありました。まず現地につくとガイドさんが案内してくれました。工場のなかには梅酒になる前の梅や日本酒を貯蔵しているタンクがありました。果実酒である梅酒、日本酒は普段、居酒屋でアルバイトしている私にとって、その完成系として販売しているものしかみたことがなかったので、とても興味があり、このような過程でできているということを知ることができよかったです。
 中野BCにて私は二つのことにとても興味を持ちました。まず一つ目は商品の歴史です。昭和24年から現在に渡り次々と商品が開発されており、さまざまな商品が作られているということです。梅酒にも色々な種類があり、赤い梅酒や蜂蜜梅酒、人参梅酒や緑茶梅酒などをはじめとし、ゆず梅酒やイチゴ梅酒、レモン梅酒、はっさく梅酒やブルーベリー梅酒といった果実系の梅酒まで幅広く開発されていることを知り、すごく勉強になったと同時に私が飲んだことのないものばかりなので、すごく興味をもちました。梅酒のほかにはみりんや料理酒、化粧品まで開発され造られていることを知り、その製品の多さに驚きました。

 中野BCは昭和7年に中野醤油店として設立されました。関西初のうすくちしょうゆ製造に成功し、昭和29年には果実酒類に免許を得て、果実酒の製造を開始し、昭和42年にみりんの製造を開始、平成17年には化粧品の販売を開始しました。また清酒「長久」が県下一に選ばれ品質が認められ県内出荷量が一位になり、昭和61年には国税庁主催の全国新酒陥鑑評会において金賞を受賞しました。このように外部からの高い評価を受けることができたのは、それまでの企業としての研究、開発への思いがあったからだと思いました。
 二つ目に興味をもったのは、大吟醸の造り方です。大吟醸は酒米を研いで精米をして、やさしく洗米をします。そして種きりという麹菌を振り掛ける作業をした後、麹をして二日間寝かせて酒母という酵母を育てます。次に原料を三段階に分けて仕込み、30〜40日かけてじっくり寝かし昔ながらの搾り方で丁寧に酒を搾ります。最後に搾った原酒を斗瓶、タンク、瓶で貯蔵し熟成させ瓶詰し完成です。このような一か月ちょっとかけて私の大好きな大吟醸ができていることを知り、お酒の深さを知りました。今回の視察研修では中野BCの実態を知ることができ、とてもいい勉強になったと思います。