中国北京の出稼ぎ労働者集住地区・スラム調査(2010年3月14日から17日まで)
14日は大雪
私は中国北京において,出稼ぎ労働者の集住地区とスラム調査について継続的にフィールドワークを行っている。2008年北京オリンピックの頃は,北京市内のホテルの宿泊費が異様なまでに高騰し,外来者への視線も厳しくフィールドワークし難い状況であった。今回の北京訪問は,2008年2月以来,北京オリンピックを挟み,実に2年ぶりであった。オリンピック前後の都市空間の変容を確認しようと,日常業務の合間を縫って3泊4日の強行軍で私費にて出かけた。2010年10月に人文地理学会主催の講演会で北京の最新事情について話さなければならないので,そのネタ集めと確認も兼ねての訪中であった。宿は日本大使館を見下ろす光明飯店。14日は雪と風で大荒れの天気で,真っ白な北京を歩く気にならず,疲れもあってホテルにこもりました。
15日はオリンピック公園から八家村スラムへ
翌15日朝,雪は残り凍りつくものの快晴。とりあえず,地下鉄を利用して,オリンピックスタジアム・鳥の巣の見学に。広大なオリンピック関連の敷地,ここにはかつて様々な生活者が存在したことを思いだそうとしましたが,あまりにも大規模で,ランドマークさえ消し去るほどの開発に,ただただ驚きました。かつてこの地域に住んでいた人たちは今どうしているのか,人に尋ねようとしても,広大なオリンピック公園とその周辺にかつての住民を知る人もおらず,中国の都市改造の凄まじさを実感しました。
鳥の巣を確認した後は,一路,スラムへ。北京大学の北側にある八家村へタクシーで行きました。ここは2002年夏からずっと見続けているが,地域の構造はほとんど変わっていなかった。雪どけでぬかるみ所々アイスバーンとなったスラムの地道を,底がすり減りヘタった靴で歩くのはとても大変だった。
八家村を歩くなか,2010年9月頃を期限とした立ち退きを予告する張り紙を発見した。人通りは少なかったが,デジカメで撮影していると,道行く地元女性が不審げに「お前,何してるねん」と話しかけてきた。一見してややこしそうな人ではなかったので,地域の状況をうかがった。すでに再開発・撤去の告知があったこと。立ち退き期限がかなり先なので,立ち退きの補償に関してまだ何も知らされていないこと。地域住民に不安と動揺が渦巻いていることなどなど。
鳥の巣を確認した後は,一路,スラムへ。北京大学の北側にある八家村へタクシーで行きました。ここは2002年夏からずっと見続けているが,地域の構造はほとんど変わっていなかった。雪どけでぬかるみ所々アイスバーンとなったスラムの地道を,底がすり減りヘタった靴で歩くのはとても大変だった。
八家村を歩くなか,2010年9月頃を期限とした立ち退きを予告する張り紙を発見した。人通りは少なかったが,デジカメで撮影していると,道行く地元女性が不審げに「お前,何してるねん」と話しかけてきた。一見してややこしそうな人ではなかったので,地域の状況をうかがった。すでに再開発・撤去の告知があったこと。立ち退き期限がかなり先なので,立ち退きの補償に関してまだ何も知らされていないこと。地域住民に不安と動揺が渦巻いていることなどなど。
跡形も無くなったスラム…
八家村を出て,対外経済貿易大学へと向かい,行きつけのレストランで北京ダックを食べる。昼食後,大学のすぐ東側はかつて太陽宮村と呼ばれた北京でも最大級のスラムに向かう。しかしながら,この一帯は北京でも有数の地価高騰地域になっていて,すでにスラムは跡形もなく撤去され,地下鉄の駅(芍薬居站)や高層マンション街となっていた。
続いて,地下鉄を利用して,北京首都図書館近くのスラムへと向かった。かつてこのスラムを撮影した写真が,雑誌「地理」の表紙を飾ったところなのである。北京の第3環状道路内に立地する数少ないスラム化した地域は,ほぼ完全にクリアランスされていた。地域住民の話を聞こうにも,ほぼ全てのマンションが,守衛付きのGated Mansionなので内部へ入れない。近くに,老人たちが憩う公園があり,そこで話を少し聞けた。地域に新たに流入してきたのは,かつて天壇公園近くの胡同に住んでいた人が多い。昔住んでいた出稼ぎ労働者たちがどこに行ったのかはわからない,とのことであった。
オリンピック前後の空間変容の凄まじさを心底確認した1日であった。
続いて,地下鉄を利用して,北京首都図書館近くのスラムへと向かった。かつてこのスラムを撮影した写真が,雑誌「地理」の表紙を飾ったところなのである。北京の第3環状道路内に立地する数少ないスラム化した地域は,ほぼ完全にクリアランスされていた。地域住民の話を聞こうにも,ほぼ全てのマンションが,守衛付きのGated Mansionなので内部へ入れない。近くに,老人たちが憩う公園があり,そこで話を少し聞けた。地域に新たに流入してきたのは,かつて天壇公園近くの胡同に住んでいた人が多い。昔住んでいた出稼ぎ労働者たちがどこに行ったのかはわからない,とのことであった。
オリンピック前後の空間変容の凄まじさを心底確認した1日であった。
16日,まずは野宿関連施設を探して…
北京滞在2日目の16日は,昼前から,市内中心部の東城区の野宿生活者の保護関連施設を探しに行った。施設の住所はネットで公開されているので,容易の探し出せた。施設は地下鉄の北新街站に近い胡同地帯のなかにあった。
入り口は開門されていてWellcome状態で「按鈴(ベルを押して)」とあったが,部屋のなかには金属探知機とスタンガンらしきものが見えた。この手の施設へアポなしで話を聞こうとすると,絶対にトラブルになるし,なかに入っても話を聞けそうな雰囲気ではなかったので,施設の外観と周辺地域を観察するにとどめた。施設の周辺地域は,出稼ぎ労働者と老北京人が混在する生活空間であり,人通りもほとんどない。1ブロック離れたくらいの所で,「東城区救助管理諮詢站」のことを何名かに尋ねたが,みんな存在自体を認識していなかった。印象として,生活に困窮した野宿生活者が自力で尋ねてくるという雰囲気でも,立地でもなく,おそらく警察・公安機関経由で連れて来られるのであろう。
入り口は開門されていてWellcome状態で「按鈴(ベルを押して)」とあったが,部屋のなかには金属探知機とスタンガンらしきものが見えた。この手の施設へアポなしで話を聞こうとすると,絶対にトラブルになるし,なかに入っても話を聞けそうな雰囲気ではなかったので,施設の外観と周辺地域を観察するにとどめた。施設の周辺地域は,出稼ぎ労働者と老北京人が混在する生活空間であり,人通りもほとんどない。1ブロック離れたくらいの所で,「東城区救助管理諮詢站」のことを何名かに尋ねたが,みんな存在自体を認識していなかった。印象として,生活に困窮した野宿生活者が自力で尋ねてくるという雰囲気でも,立地でもなく,おそらく警察・公安機関経由で連れて来られるのであろう。
天壇公園北側一帯のインナーシティは今…
続いて,地下鉄で天壇公園の北部一帯,祈年大街の東西に広がるインナーシティを訪問した。北京オリンピック前の訪問時,すでに撤去公告が出ていた地域で,その後のスクラップ&ビルドの進展具合を確認しに行った。北京オリンピック前,この祈年大街がマラソンコースになるということで,インナーシティを目隠しすべく高さ2メートルほどの塀で囲まれ路肩の緑化が進んでいた。塀の内部の再開発は,祈年大街の西側で大幅に進展していて,老朽化した家屋は姿を消し,真新しい中高層の集合住宅が立ち並んでいた。祈年大街の東側は撤去公告が出たところで,再開発はこれから着手する模様であった。この地域の住民の多くは,15日午後に訪問した首都図書館近くの再開発地域で代替住宅を供与され移転したはずである。
浙江村はどうなった?!
次に,かつて浙江村と呼ばれていた地域,南苑路の東側一帯へと向かった。ここは浙江省出身者で服飾加工産業に従事する外来人口が多い所で,2002年夏に訪問したことがある。南苑路沿いは服飾関係の卸売市場が立ち並び,買い物客で賑わっていた。南苑路の東側はかつてと変わらず,規模の小さな服飾加工工場が多く,そこで働く人々の住宅や市場などの生活空間が広がっていた。ただしこの地域でも,すでに再開発計画が走り始めていて,一部で建物が取り壊されていた。南苑路とその東側の光彩路で囲まれた一帯のみが,エアーポケットのように,かつての浙江村の猥雑さを留めていたが,ここ数年の再開発でここの地域も一変するであろう。
ホテルへ帰る途中,タクシーの運転手にお願いして,北京南站の方を回ってもらった。かつてこの地域には直訴村があったが,やはり跡形もなくクリアランスされ,巨大な北京南站が建設されていた。
ホテルへ帰る途中,タクシーの運転手にお願いして,北京南站の方を回ってもらった。かつてこの地域には直訴村があったが,やはり跡形もなくクリアランスされ,巨大な北京南站が建設されていた。