塩路ゼミ3年生が吹田商店街をフットパス
2020年10月25日(日)に、国際観光学部 塩路研究室3年生が吹田市の旧吹田村にあたるJR吹田と阪急吹田駅周辺の新旧商店街のまち歩きを実施しました。今年も塩路研究室がキャリアゼミで連携している「吹田歴史文化まちづくり協会」の「吹田まち案内人」の方々に、学生たち3チーム(千里ニュータウンの緑の回廊を歩くコース、吹田商店街コース、北千里コース)を案内していただきました。例年は3年生が5月に実施する活動ですが、今年は新型コロナウィルス感染予防を徹底しながらの秋の実施となりました。今回は、吹田商店街コースのチームが1回目に案内人の方と歩いた活動を通して学び、感じたことや考えたことを報告します。
旧吹田(村)の12商店街を歩いて
3年生 立野 愛
私は今回、旧吹田村に存在している12商店街を回るコースを歩きました。今回、なぜ私が数あるコースの中からこのコースを選んだかというと、過去に何度か友人の家を訪れた際に、吹田市の商店街を歩いたことがあったからです。そのため、今回は過去に歩いた商店街について、詳しく知りたいと思いこのコースを選びました。
まず、初めに商店街のコースを歩く前に、旧吹田村という街のことについて浜屋敷の吹田歴史文化まちづくり協会の吹田まち案内人の方から説明がありました。私は、その説明を聞き、吹田は過去とても栄えていた事と、それと同時に商業の街でもあったという事を知りました。また、都市開発や道路建設による立ち退きの関係で商店街の一部がなくなってしまった事や、店を継いでくれる後継者がいないため商売を続けることが困難となってしまい、最終的には店閉じまいをするしかない、という問題がある事など、多くの事実を知りました。
私は、そのような話を聞き、とても考えさせられました。なぜなら、商店街がなくなってしまった背景には、単なる時代の経過だけでなく、それらを取り巻く環境の変化や、人々の気持ちも大きく変化してしまったのではないかと感じたからです。また、私たちに商店街コースを案内してくださった吹田まち案内人の西村さんや、瓢風さんの説明や話の中からは、自分たちが小さい時から住んでいた場所がだんだんと変わってしまったことに対する悲しさや、また昔のように商店街で吹田を活性化したい、という強い熱意が感じられました。私は西村さんや瓢風さんの力に少しでもなりたいと思い、どのような視点で変わってしまった商店街コースを観察すれば、良い案が出せるのか考えようと思いました。
私が商店街コースを歩いて感じた事は、良い店やおいしそうな店がたくさんあるのにも関わらず、人々はその店の存在を知らないがために、店に人が入らないのではないかという事です。私は過去に一度、友人の家に向かう途中の旭通で日替わり定食をやっているという店のおいしそうな看板を見つけました。その日は、友人とどこに昼食を食べに行くか決めていなかったため、その看板の店に惹かれて足を運びました。その店は、新旭通りの少し奥に行ったところにあったのですが、とても暖かい雰囲気の店でご飯もおいしかったので、普段感じることの出来ない、特別な気分を味わうことが出来ました。
このような私の実体験も踏まえ、普段は絶対に行かないような店や知られていないような店でも、旭通のような道路に面した大きな通りに、店の看板を出したり、チラシを張るなどといった工夫をするだけでも、人の目を引くことが出来き、店に人を呼ぶことが出来るようになるのではないかと感じました。現に、私がそうであったように、もしあの日、旭通で店の看板を見なかったら、私と友人はきっと目に付いた近くの店に足を運んでいたのではないかなと思います。商店街をこれ以上なくさないためにも、そして、これから先、今ある商店街を維持していくためにも、まずは、大きな通りである旭通を行きかう人々に店の存在を知ってもらうという事が大切になって来るのではないかと感じました。
また、一度でもいいから店に来てもらうという事を前提に、来てもらったお客さんに対しては、そのお客さんの家族や友人、知人にも店の存在を知ってもらえるように声掛けをするなど、人と人との繋がりやネットワークも店を知ってもらえる大きなチャンスになるのではないかなと思いました。
まず、初めに商店街のコースを歩く前に、旧吹田村という街のことについて浜屋敷の吹田歴史文化まちづくり協会の吹田まち案内人の方から説明がありました。私は、その説明を聞き、吹田は過去とても栄えていた事と、それと同時に商業の街でもあったという事を知りました。また、都市開発や道路建設による立ち退きの関係で商店街の一部がなくなってしまった事や、店を継いでくれる後継者がいないため商売を続けることが困難となってしまい、最終的には店閉じまいをするしかない、という問題がある事など、多くの事実を知りました。
私は、そのような話を聞き、とても考えさせられました。なぜなら、商店街がなくなってしまった背景には、単なる時代の経過だけでなく、それらを取り巻く環境の変化や、人々の気持ちも大きく変化してしまったのではないかと感じたからです。また、私たちに商店街コースを案内してくださった吹田まち案内人の西村さんや、瓢風さんの説明や話の中からは、自分たちが小さい時から住んでいた場所がだんだんと変わってしまったことに対する悲しさや、また昔のように商店街で吹田を活性化したい、という強い熱意が感じられました。私は西村さんや瓢風さんの力に少しでもなりたいと思い、どのような視点で変わってしまった商店街コースを観察すれば、良い案が出せるのか考えようと思いました。
私が商店街コースを歩いて感じた事は、良い店やおいしそうな店がたくさんあるのにも関わらず、人々はその店の存在を知らないがために、店に人が入らないのではないかという事です。私は過去に一度、友人の家に向かう途中の旭通で日替わり定食をやっているという店のおいしそうな看板を見つけました。その日は、友人とどこに昼食を食べに行くか決めていなかったため、その看板の店に惹かれて足を運びました。その店は、新旭通りの少し奥に行ったところにあったのですが、とても暖かい雰囲気の店でご飯もおいしかったので、普段感じることの出来ない、特別な気分を味わうことが出来ました。
このような私の実体験も踏まえ、普段は絶対に行かないような店や知られていないような店でも、旭通のような道路に面した大きな通りに、店の看板を出したり、チラシを張るなどといった工夫をするだけでも、人の目を引くことが出来き、店に人を呼ぶことが出来るようになるのではないかと感じました。現に、私がそうであったように、もしあの日、旭通で店の看板を見なかったら、私と友人はきっと目に付いた近くの店に足を運んでいたのではないかなと思います。商店街をこれ以上なくさないためにも、そして、これから先、今ある商店街を維持していくためにも、まずは、大きな通りである旭通を行きかう人々に店の存在を知ってもらうという事が大切になって来るのではないかと感じました。
また、一度でもいいから店に来てもらうという事を前提に、来てもらったお客さんに対しては、そのお客さんの家族や友人、知人にも店の存在を知ってもらえるように声掛けをするなど、人と人との繋がりやネットワークも店を知ってもらえる大きなチャンスになるのではないかなと思いました。
まち歩きで発見した旧吹田村の過去
3年生 土居 奈菜乃
私たちは旧吹田村の12商店街を吹田まち案内人の方に案内していただきました。まず、歩く前に少しだけ吹田市の成り立ち、これから歩く場所の説明をしてもらい、実際に浜屋敷から歩き始めました。私たちが歩いた場所は、吹田発祥の中心地域です。しかし、防災マップ作成のために6つの地域に分けた際の地名は「JR以南地域」と名付けられ、吹田村の地名が消えてしまいました。それでも、地元愛の強い地域住民の方たちや郷土史家が旧吹田村をテーマに講演や説明をするときは、「JR以南地域」ではなく。「旧吹田村」とあえて使うことが多いそうです。
12商店街は「高浜通り商店街」「本町通り商店街」「柳通り商店街」「寿緑通り商店街」「本通り商店街」「栄通り商店会」「さんくす名店会」「錦通商店街」「中通り商店街」「千日通り商店街」「旭通商店街」「新旭通り商店街」です。実際に歩くと、すでに商店街はなくなっていて住宅街になっているところが大半でした。案内していただいた吹田まち案内人の西村さんによると、道路を広くすることによって商店街が廃れる、なくなると感じるようです。私の感覚では道路が広くなると見通しがよく、過ごしやすいというものですが、実際に住んでいる人々から見ると違うのだと思いました。
「本町通り商店街」や「旭通商店街」などでは戦争時に空襲を避けるためという名目で商店街の方たちに立ち退きを要請し、道路を広げました。本当は「戦車を通す、物資を運ぶため」という違う目的で道路を拡張したのではないかと言われているそうです。「本町通り商店街」には道路を広げたことによって家を囲んでいた塀が撤去され、むき出しになっている家もあり、話だけでなく、実際に目にすることで本当の話なのだと実感することができました。西村さんが言った、道路を広げると商店街がなくなるというのは、このように起きたのだと感じました。
「柳通り商店街」では、柳が多く植えられていたそうですが、現在は1本のみが残っている状態で少し寂しさを感じました。また、「柳通り商店街」とともに「寿緑通り商店街」は阪急千里線の東吹田駅が移転、ダイエー(現イオン)ができたことにより衰退していきました。駅の位置が少し変わっただけでも人通りが少なくなることに驚きました。
実際に歩いてみることで、以前はそこにあったと感じることができる豆腐屋の煙突や酒屋などいろいろ発見がありました。また、説明をしていただいたことで発見できたものがほとんどでした。説明がなく、歩いていれば何も思わず通り過ぎてしまうような通りでした。このようなコースを歩く際には、一緒に歩いて、説明してくださったまち案内人の方々の存在は貴重だと感じました。
12商店街は「高浜通り商店街」「本町通り商店街」「柳通り商店街」「寿緑通り商店街」「本通り商店街」「栄通り商店会」「さんくす名店会」「錦通商店街」「中通り商店街」「千日通り商店街」「旭通商店街」「新旭通り商店街」です。実際に歩くと、すでに商店街はなくなっていて住宅街になっているところが大半でした。案内していただいた吹田まち案内人の西村さんによると、道路を広くすることによって商店街が廃れる、なくなると感じるようです。私の感覚では道路が広くなると見通しがよく、過ごしやすいというものですが、実際に住んでいる人々から見ると違うのだと思いました。
「本町通り商店街」や「旭通商店街」などでは戦争時に空襲を避けるためという名目で商店街の方たちに立ち退きを要請し、道路を広げました。本当は「戦車を通す、物資を運ぶため」という違う目的で道路を拡張したのではないかと言われているそうです。「本町通り商店街」には道路を広げたことによって家を囲んでいた塀が撤去され、むき出しになっている家もあり、話だけでなく、実際に目にすることで本当の話なのだと実感することができました。西村さんが言った、道路を広げると商店街がなくなるというのは、このように起きたのだと感じました。
「柳通り商店街」では、柳が多く植えられていたそうですが、現在は1本のみが残っている状態で少し寂しさを感じました。また、「柳通り商店街」とともに「寿緑通り商店街」は阪急千里線の東吹田駅が移転、ダイエー(現イオン)ができたことにより衰退していきました。駅の位置が少し変わっただけでも人通りが少なくなることに驚きました。
実際に歩いてみることで、以前はそこにあったと感じることができる豆腐屋の煙突や酒屋などいろいろ発見がありました。また、説明をしていただいたことで発見できたものがほとんどでした。説明がなく、歩いていれば何も思わず通り過ぎてしまうような通りでした。このようなコースを歩く際には、一緒に歩いて、説明してくださったまち案内人の方々の存在は貴重だと感じました。
衰退した商店街を復活させるには
3年生 藤井 亮輔
10月25日に私はフィールドワークとして吹田の旧商店街のまち歩きを行いました。吹田市の旧吹田村は、昭和初期には多くの商店街で繁栄していましたが、鉄道の駅が移動したことや第二次世界大戦の影響などから衰退していきました。このような問題を解決すべく吹田歴史文化まちづくり協会の地元住民の方々とまち歩きを行うことで、昔との違いや現状を知り、どうすれば商店街が復活し、活気溢れる町に戻るのかを考えていきたいと思いました。
商店街を歩いて気づいたことは、明るく今も活性化している通りと、昔とは違い、だいぶ廃れた通りが見られました。この二つの通りの違いとして、人通りが多いか少ないかの違いがあると思います。現在のJR吹田駅からまっすぐに伸びる「旭通商店街」や「さんくす名店会」は今も多くの人々が通り、洋服屋や八百屋などが多く並んでいました。しかしながら、昔の阪急吹田駅があったとされる、「柳通り」や「寿緑通り」などは異なっていました。昔は柳通りにはたくさんの柳の木が植えられ、通る者を魅了していました。また、寿緑通りには豆腐屋や銭湯などがあり栄えていたそうです。しかし現在は、柳の木は一本だけしか残っておらず、開いている店がある雰囲気は全くない状況でした。
このような状況を打破するには、商店街をリノベーションするのが良いと思います。例えば、外国人観光客向けに空き家を民泊施設に改造したり、日本文化である銭湯の復活や若者向けにオシャレなカフェやファッション店を設けるなど商店街を再編することが考えられます。より多くの人々が訪れやすい環境をつくり出すことで町は再び活性化していくのではないかと思いました。また、その商店街にしかない唯一無二のモノや人、例えばキャラクター性のある店主、食べ物や飲み物、品物を作っていけば、「訪れるべき観光地」のような商店街になり、人々で溢れかえると思いました。
今回吹田の町を歩いてみて、昔は12の通りが存在したのも関わらず、現在は衰退しほとんど残っていない状況を目の当たりして、驚きと悲しみに包まれました。人々は駅近で訪れやすい場所へ買い物に行くので、駅が数メートルずれただけで商店街は廃れていくことがわかり、これは吹田以外でも言える事ではないかと思いました。現在、自分が何気なく利用している商店街も、町が発展し駅が移動したり、新たな駅が誕生したりすると、衰退していく運命なのかと思うと、残念で悔しく思います。しかしながら、衰退していくのをただ眺めているのは望まないので、可能な限り、自分が出来ることをやっていきたいと思いました。
商店街を歩いて気づいたことは、明るく今も活性化している通りと、昔とは違い、だいぶ廃れた通りが見られました。この二つの通りの違いとして、人通りが多いか少ないかの違いがあると思います。現在のJR吹田駅からまっすぐに伸びる「旭通商店街」や「さんくす名店会」は今も多くの人々が通り、洋服屋や八百屋などが多く並んでいました。しかしながら、昔の阪急吹田駅があったとされる、「柳通り」や「寿緑通り」などは異なっていました。昔は柳通りにはたくさんの柳の木が植えられ、通る者を魅了していました。また、寿緑通りには豆腐屋や銭湯などがあり栄えていたそうです。しかし現在は、柳の木は一本だけしか残っておらず、開いている店がある雰囲気は全くない状況でした。
このような状況を打破するには、商店街をリノベーションするのが良いと思います。例えば、外国人観光客向けに空き家を民泊施設に改造したり、日本文化である銭湯の復活や若者向けにオシャレなカフェやファッション店を設けるなど商店街を再編することが考えられます。より多くの人々が訪れやすい環境をつくり出すことで町は再び活性化していくのではないかと思いました。また、その商店街にしかない唯一無二のモノや人、例えばキャラクター性のある店主、食べ物や飲み物、品物を作っていけば、「訪れるべき観光地」のような商店街になり、人々で溢れかえると思いました。
今回吹田の町を歩いてみて、昔は12の通りが存在したのも関わらず、現在は衰退しほとんど残っていない状況を目の当たりして、驚きと悲しみに包まれました。人々は駅近で訪れやすい場所へ買い物に行くので、駅が数メートルずれただけで商店街は廃れていくことがわかり、これは吹田以外でも言える事ではないかと思いました。現在、自分が何気なく利用している商店街も、町が発展し駅が移動したり、新たな駅が誕生したりすると、衰退していく運命なのかと思うと、残念で悔しく思います。しかしながら、衰退していくのをただ眺めているのは望まないので、可能な限り、自分が出来ることをやっていきたいと思いました。
初めて商店街を歩き感じたこと
3年生 佐藤 いつき
私たちは10月25日に吹田駅周辺の旧吹田村の12商店街をフットパスし、昔あった商店街、今ある商店街について学び、考えました。吹田市では明治初期から近年の間にたくさんの商店街が誕生しました。私たちは浜屋敷の方のお話を聞きながら柳通り、寿緑通り、本町通り、新旭通り、高浜通り、旭通、本通り、千日通り、中通、錦通り、栄通り商店街とさんくす名店会の12商店街を歩きました。
今でも営業し、商店街として残っている商店街と、衰退し住宅地に変化している商店街がありました。今でも新旭通り、旭通、本通り、中通、栄通り商店街、さんくす名店会は商店街として残っていましたが、最近できただろうと考えられる店が数多くあり、昔ながらの商店街という雰囲気を味わいながら現代の雰囲気も味わうことができました。その他の住宅地に変化した商店街にも、昔商店街があったと分かる、豆腐屋の煙突の跡や、看板など、たくさんの発見がありました。
商店街が無くなった多くの理由は、道路を広くするための立ち退きや、終戦直前に空襲に備えての取り壊しや立ち退きが原因だと聞き、反強制的に商店街がなくなったことにとても複雑な気持ちになりました。
私は今回フットパスをしてみて、初めて商店街の歴史を伺い、考えながら歩きました。吹田の商店街には、新しい店もたくさんできていました。私は商店街を活性化させるためには若者向けのカフェや、遊ぶ所、ゲームセンターを作ることを提案します。そして、商店街のwebサイトを見ましたが、少し見づらいので、webサイトの更新、SNSを使った呼びかけが大事なのではないかと考えました。大阪駅から約10分で訪れることができるので、インスタ映えの何かがあれば、若者は訪れると思います。Instagramが普及している現在、若者はInstagramを見て好きなカフェを探したり、インスタ映えスポットを探して訪れます。SNSの影響力は大きいので、その情報はどんどん広まっていくと考えました。他にも飲食店がとても多く、大学が近くにあるので、商店街に学生が訪れやすいように、学生証を提示すると割引を受けることができる、学割の実施も良いのではないかと思いました。
商店街を歩いてみて、年齢層が高いと感じました。商店街を活性化、維持するためにはやはり若者の力が必要で、若者をいかに呼び込むかが重要なところだとおもいます。学生の私から見ても、歴史のある店や商店街はとても魅力的に感じました。もっと吹田の商店街の魅力を知ってもらいたい思いました。
今でも営業し、商店街として残っている商店街と、衰退し住宅地に変化している商店街がありました。今でも新旭通り、旭通、本通り、中通、栄通り商店街、さんくす名店会は商店街として残っていましたが、最近できただろうと考えられる店が数多くあり、昔ながらの商店街という雰囲気を味わいながら現代の雰囲気も味わうことができました。その他の住宅地に変化した商店街にも、昔商店街があったと分かる、豆腐屋の煙突の跡や、看板など、たくさんの発見がありました。
商店街が無くなった多くの理由は、道路を広くするための立ち退きや、終戦直前に空襲に備えての取り壊しや立ち退きが原因だと聞き、反強制的に商店街がなくなったことにとても複雑な気持ちになりました。
私は今回フットパスをしてみて、初めて商店街の歴史を伺い、考えながら歩きました。吹田の商店街には、新しい店もたくさんできていました。私は商店街を活性化させるためには若者向けのカフェや、遊ぶ所、ゲームセンターを作ることを提案します。そして、商店街のwebサイトを見ましたが、少し見づらいので、webサイトの更新、SNSを使った呼びかけが大事なのではないかと考えました。大阪駅から約10分で訪れることができるので、インスタ映えの何かがあれば、若者は訪れると思います。Instagramが普及している現在、若者はInstagramを見て好きなカフェを探したり、インスタ映えスポットを探して訪れます。SNSの影響力は大きいので、その情報はどんどん広まっていくと考えました。他にも飲食店がとても多く、大学が近くにあるので、商店街に学生が訪れやすいように、学生証を提示すると割引を受けることができる、学割の実施も良いのではないかと思いました。
商店街を歩いてみて、年齢層が高いと感じました。商店街を活性化、維持するためにはやはり若者の力が必要で、若者をいかに呼び込むかが重要なところだとおもいます。学生の私から見ても、歴史のある店や商店街はとても魅力的に感じました。もっと吹田の商店街の魅力を知ってもらいたい思いました。
情緒あふれる商店街
3年生 森田 竜也
塩路ゼミでは、3つのグループに分かれて吹田市でまち歩きを行いました。それぞれ北千里チーム、緑地帯チーム、商店街チームに分かれ、吹田まち案内人の方に案内してもらいました。私は、商店街でまち歩きさせていただきました。今回は、そこで見たこと、感じたことを報告していきます。
まず、JR吹田駅に着いて感じたのは、どこか懐かしい不思議な気持ちでした。集合場所である浜屋敷に向かう途中でも所々で懐かしい匂いや雰囲気が漂い、あたかも自分が子供の頃、そこに住んでいたかのような気分になりました。恐らく、自分が小さいときに住んでいた町と少し雰囲気が似ていたからだと思います。
そして先生や案内人の方々と合流し、商店街を案内してもらいました。案内してもらう商店街は全部で12の通りがあり、昔の面影が残っている商店街からその光景から過去の様子が想像もできないような商店街まで様々な通りがありました。特に印象に残っているのは新旭通り商店街です。路地裏にある商店街で店舗数は74軒あります。12の商店街の中で私の最も好みの商店街でした。まち案内人の方も「吹田で一番元気のある商店街だ」とおっしゃっていました。戦後の時期に旭通商店街の路地にあった簡易店舗が集まり発生した商店街で、昭和40年代にアーケードを整備して今の姿になりました。しかし、できた当初は、露天商での営業は非合法だったと言います。商店街の名前に「新」が付いているのもそのためだったそうです。この商店街は、道路を挟んで分かれており、北部は衣料品が多く、南部は食品を扱う店舗が集まっています。一時期は、シャッター街化していたそうですが、役員や地元の人たちによって徐々に回復しつつあるそうです。まち歩きを行った日が日曜日であったためか、シャッターを下ろしている店舗が多く、営業している店舗は少数でした。個人的に興味を持ったのが、松月堂という和菓子屋で、私は餅や和菓子が好きなのでとても惹かれました。案内人の方いわく、今は、三食団子がおいしいそうです。
まち歩きをしていて思ったことは、やはり飲食店が多いという点です。どの商店街でも大体、飲食店があり、特に居酒屋が多かったです。今回、まち歩きをして自分の街には、商店街はないのでとても新鮮でかつ懐かしいという不思議な感覚に包まれました。案内人の方の話も興味深い話が多く、聞いていると活気が溢れていた当時の商店街に行ってみたくなりました。今では、各地でスーパーやモールなどが主流だとは思うのですが、こういった情緒溢れる商店街も好きなので商店街の復興を期待しています。私は、この商店街に多くある飲食店を活かしてスタンプラリーを行い、何個か貯まったら食事券提供するなどのイベントを行えば、より集客が見込めると考えました。
まず、JR吹田駅に着いて感じたのは、どこか懐かしい不思議な気持ちでした。集合場所である浜屋敷に向かう途中でも所々で懐かしい匂いや雰囲気が漂い、あたかも自分が子供の頃、そこに住んでいたかのような気分になりました。恐らく、自分が小さいときに住んでいた町と少し雰囲気が似ていたからだと思います。
そして先生や案内人の方々と合流し、商店街を案内してもらいました。案内してもらう商店街は全部で12の通りがあり、昔の面影が残っている商店街からその光景から過去の様子が想像もできないような商店街まで様々な通りがありました。特に印象に残っているのは新旭通り商店街です。路地裏にある商店街で店舗数は74軒あります。12の商店街の中で私の最も好みの商店街でした。まち案内人の方も「吹田で一番元気のある商店街だ」とおっしゃっていました。戦後の時期に旭通商店街の路地にあった簡易店舗が集まり発生した商店街で、昭和40年代にアーケードを整備して今の姿になりました。しかし、できた当初は、露天商での営業は非合法だったと言います。商店街の名前に「新」が付いているのもそのためだったそうです。この商店街は、道路を挟んで分かれており、北部は衣料品が多く、南部は食品を扱う店舗が集まっています。一時期は、シャッター街化していたそうですが、役員や地元の人たちによって徐々に回復しつつあるそうです。まち歩きを行った日が日曜日であったためか、シャッターを下ろしている店舗が多く、営業している店舗は少数でした。個人的に興味を持ったのが、松月堂という和菓子屋で、私は餅や和菓子が好きなのでとても惹かれました。案内人の方いわく、今は、三食団子がおいしいそうです。
まち歩きをしていて思ったことは、やはり飲食店が多いという点です。どの商店街でも大体、飲食店があり、特に居酒屋が多かったです。今回、まち歩きをして自分の街には、商店街はないのでとても新鮮でかつ懐かしいという不思議な感覚に包まれました。案内人の方の話も興味深い話が多く、聞いていると活気が溢れていた当時の商店街に行ってみたくなりました。今では、各地でスーパーやモールなどが主流だとは思うのですが、こういった情緒溢れる商店街も好きなので商店街の復興を期待しています。私は、この商店街に多くある飲食店を活かしてスタンプラリーを行い、何個か貯まったら食事券提供するなどのイベントを行えば、より集客が見込めると考えました。