大阪文化としての新世界

 私たちは、大阪文化を調べる一つの手がかりとして、大阪でとても古くからある町新世界を調査しに出掛けました。その理由は、ゼミ活動の一環として日本の中に共存共栄する多様な異文化を調査している中で、自己の文化についてもより深く知りたいと思い、日本の文化、特に私たちの地元である大阪文化を詳しく調べたいと思ったからです。そこでまず、大阪の新世界を代表するといっても過言ではない通天閣を訪れました。通天閣の設立背景や構造、通天閣まわりの下町などを調べ、通天閣の名物として知られている串カツをも堪能しました。今回は、大阪文化としての新世界の通天閣調査について報告します。

※この報告は、阪南大学【実学志向型総合的キャリアシステムの構築】事業の2013年度キャリアゼミ支援事業「異文化交流と比較文化論的調査により多文化共生を目指す(CHOゼミ)」の「韓国文化院との異文化交流」に関する活動報告の一部です。
※この学生教育研究活動は阪南大学学会より補助を受けています。

通天閣の歴史   住吉 安沙実

 通天閣とは、大阪市浪速区恵美須東に位置する繁華街の新世界にある展望台です。通天閣は1912年に創設以来、大阪人に愛され続け、今では大阪人の心のシンボルと言われるほどの存在となっています。まず初めに、通天閣の歴史について話をしていきたいと思います。通天閣という名前は、藤沢南岳という儒学者によって名づけられたもので、「天に通じる高い建物」という意味から由来しているといわれています。そして、通天閣の設計者は東京タワーも設計した内藤多仲氏です。1912年に新世界のシンボルとしてルナパークという遊園地とともに初代目の通天閣が建てられました。辺りには飲食店や映画館などの娯楽施設が多くあり、当時は大変な人気を集めていましたが、戦争の影響を受けて昭和18年に解体されました。
 しかし、戦後に「通天閣をもう一度新世界に」という思いを持った人々によって1954年通天閣株式会社創立事務所が設立され、たくさんの苦労を経て、1956年に二代目の通天閣として誕生しました。二代目の通天閣は、当時では日本最高の高さとして103メートルもある建物に生まれ変わり、通天閣は再び輝きを取り戻しました。また、いまでも通天閣に掲示されている日立製作所の広告は二代目通天閣完成の翌年からスタートしました。二代目通天閣建設の際にかかった費用を賄うために、広告主を探したのがきっかけのようです(※2) 2011年には12回目の改修工事を行い、通天閣のネオンは現在のようにリニューアルされました。1年を6色で表現することができ、これまで以上に季節ごとに色鮮やかに表現できるようになりました。また、てっぺんのネオンの色では、明日の天気までわかります。通天閣のネオンの技術は年々進化し続けています。
 次に、通天閣の入場者数の推移について述べたいと思います。二代目の通天閣が建てられてすぐに、大阪万博が開かれた1970年頃は、年間に100万人以上の人が訪れていました。しかし、1975年には20万人程度にまで入場者が激減しました。その後、通天閣を舞台にしたテレビ番組の放映や新世界名物としての串カツの人気が高まり、2006年からは再び入場者が100万人以上へと回復に向かいました。そして、2012年度にはなんと132万人もの人が通天閣を訪れています。実際に私達が通天閣を調査するために訪れたときも、老若男女問わずたくさんの人が通天閣へ登るために列を作っていました。通天閣は今再び大阪のシンボルとして再認識され、大阪の人のみならず、それ以外の人々にも愛されています。地元大阪のシンボルである通天閣の調査に出向いたことで、大阪人と共に歩んできた通天閣の歴史についても知ることができました。
  • 図:通天閣の入場者数(※1)

通天閣の構造   海道 美皇

 次に、通天閣の構造について調べました。本体は鉄骨鉄筋コンクリート造りで、展望台の構造は、周囲をガラス張り2階建てにした鉄骨鉄筋コンクリート造りです。塔高は地上100m、重量 1000トンで、関東大震災級の地震や風速80メートルの強風にも耐えられる構造となっています。そして、通天閣の設計を行った内藤多仲さんは、建築構造技術者であり、建築構造学者でもあります。この2代目の通天閣以外にも多数の鉄骨構造の電波塔や観光塔の設計を手がけ、「塔博士」とも呼ばれている人物です。そしてタワー6兄弟を1950年代から1960年代にかけて建てられました。この塔博士内藤多仲氏が手掛けたものとしては、名古屋テレビ塔、通天閣、別府タワー、さっぽろテレビ塔、東京タワー、博多ポートタワー(竣工順)などが挙げられます。戦前には、NHK愛宕山放送局鉄塔(45.4m)やNHK大阪千里放送所鉄塔(100m)など、60本以上のタワーを建てました。また、内藤氏が設計した日本興業銀行や建設中の歌舞伎座が、関東大震災の際にもほとんど被害を受けてなかったことから、内藤多仲氏は「耐震構造の父」とも呼ばれています。内藤氏は、1970年84歳で亡くなりました。
 通天閣の構造材である鉄骨は、溶融亜鉛めっきされた品質の高い物だったため、1996年の改修工事時に確認したところ、びくともしていなかったと言われています。完成翌年である1957年から、塔の側面に総合電機企業の日立製作所が広告を出しています。地上と2階を結ぶエレベーターの乗りかごは円柱形であるが、この形状のエレベーターが設置されたのは通天閣が世界で最初とされています。2001年にこのエレベーターは更新されたが、形状は現在もそのままです。また、展望台の下、高さ75mの位置から長さ9mの鉄骨製の錘状突起が4方向に突き出ているが、これは季節やイベントに応じて万国旗や鯉のぼりなどを吊り下げるためのアームとして使われています。2006年(平成18年)には、再建50周年を迎えるに当たり、改修工事が行われ、大時計の形が丸から八角形に変更されました。ほかにもネオンの色も変更され、より目立つようになりました。塔頂上には翌日の天気予報を4色の組み合わせで示すネオンサインが点灯します。また夜間はネオンの光で塔全体が彩られ、毎時0分になると、塔東側面にある大時計の文字盤がグラデーションで光ります。2012年には、100周年を迎えるにあたり5階展望台が金色に全面改装され「黄金展望台」となり、一般公開されました。内部構造では、3階は催会場、2階は売店・遊技場・切符売場、中2階は事務所・役員室・更衣室、1階はロビー・切符売場、そして地階は歌謡劇場・電気機械室となっています。
 通天閣の展望台の高さは91mであり、エレベーターで登ることができます。その展望台からは大阪市内が一望できます。決してすごく高いとは言えなくとも、微妙な高さだからこそ見える景色がたくさんありました。新世界の周りはスパワールドが見え、色々な建物の屋根はもちろん、新世界の街中を歩く人まで肉眼で見ることができ、新世界を取り囲む人々の様子が詳細に見えました。大阪らしい活気のある雰囲気を感じることができました。その他にも天王寺界隈はとてもしっかりと見えます。すぐ下には一心寺があり、天王寺動物園全体が見え、少し遠くに近鉄百貨店や、天王寺駅、天王寺ミオ、キューズモールや最近話題の阿部野ハルカスが一望できます。最近どんどんと発展していっている天王寺の流れが通天閣から眺めるとよくわかります。また違う方向を見ると、プロ野球オリックスのホームグランド京セラドームも見えました。少し遠いが、その独特の形まではっきりと見えます。その他にも南海なんば駅界隈、なんばPARKS、高島屋等ミナミの繁華街も見ることができます。
 展望台にはどこに何が見えるという地図のようになっている写真があり、それをたどってみていくとすぐどこに何があるかわかりました。展望台には望遠鏡も設置されております。通天閣からの眺めは、どんなに高いビルが建っても大阪が時代とともに変わっていく景色がよく見える絶好のスポットだと思いました。

ビリケンさん   山下 若菜

 次に新世界のシンボルである、ビリケンさんについて、調べました。大阪をぐるっと360度見渡せ、非常に眺めがいいと評判されている通天閣5階の展望台には、尖った頭と吊り上がった目が特徴の子供の姿をしている幸運の神の像であるビリケンさんが置かれています。笑っているのか怒っているのか、不思議な表情と、愛嬌あるポーズが人気で、いつもお願いする人が絶えないです。
 ビリケンさんの由来について、その発祥には諸説ありますが、通天閣観光が所有する資料によると、1908年にアメリカの女性芸術家、フローレンス・プリッツが「夢の中で見た神様」をモデルとし、制作した作品が起源と言われています。当時の大統領であるウィリアム・ハワード・タフトのウィリアムの愛称「ビリー」に、「小さい」の意味を表す接尾語「-ken」を加えたのが「ビリケン」の名前の由来とされています。当時の認識では、足を突き出す座り方はアフリカ人、顔立ちは東洋人がモデルで、足の裏をかいて笑えば願いがかなう福の神とされていました。その後、シカゴのある企業ビリケンカンパニーが、ビリケン像などを制作、販売し、「幸福の神様」として全世界に知れ渡ったと言われています。
 ビリケンさんが日本にやってきたのは明治時代のことです。1909(明治42)年頃日本に渡来し、家内和合、商売繁盛の神として日本中の花街を中心に流行したといわれています。1911( 明治44) 年、大阪の繊維会社である神田屋田村商店(現・田村駒)が商標登録を行い、1912年、大阪の通天閣に併設された新世界の遊園地「ルナパーク」にビリケン堂が作られ、当時流行していたビリケン像が奉られ、新世界の名物になりました。しかし、ビリケン像はルナパークの閉鎖とともに行方不明になってしまいました。
 時は変わって1979年(昭和54年)、通天閣に「通天閣ふれあい広場」をつくる際、かつて通天閣の名物であったビリケンを復活させることになり、1949年(昭和24年)に田村駒が作っていたビリケン像を通天閣に貸し出し、盛大なイベントが行われたのです。またそれをモデルに作られたのが二代目のビリケンであり、新世界に「お里帰り」しました。以来、火災や戦禍を乗り越え、平成24年5月、通天閣並びに新世界100周年を記念して、新たに三代目のビリケンさんが新調されました。三代目ビリケンさんの中には金のビリケンさんでビリ金さんも納められています。現在では三代目となるビリケン像が、通天閣から人々の生活を見守っています。
 大きく突き出したビリケンさんの足の裏は、撫でるとご利益があると言われ、今日も大阪のシンボル的な神様として、多くの人が足の裏を撫でに通天閣を訪れます。また、商店や民家にビリケン像が祀られていることも多く、手を伸ばせば届く距離にいつも居てくれる、身近な福の神として市民の生活に根付いています。
  • 写真:ビリケン

新世界の伝統名物串カツ   門松 真美

 新世界を発祥地としている日本和食のひとつであり、大阪の伝統ある食べ物として知られている串カツについて調べました。現在の新世界は、1996年に放映されたNHK連続ドラマ小説「ふたりっ子」が新世界を舞台にしていたため、全国的に認知度が上がりました。日本全国からの観光客が年々増加することに伴い、新世界という町の認知度も高まりました。新世界を代表する土産として、新世界が発祥といわれる串カツもともにブームとなりました。今では多くの串カツ店が新世界に集まっています。
 串カツとは、小ぶりに切った牛肉や魚介類、野菜を個別に串にさして衣をまぶしてあげた料理です。大阪市浪速区新世界にあるカウンター形式の店が発祥の地とされています(※3) 関東や中京地方と比べ、様々な食材が串カツになっています。
 串カツの食べ方としては、客席におかれた共用のステンレス容器に入った薄いウスターソースに串カツを付けて食べるスタイルが多いです(※4) そのため、ソースに一度つけた串カツを再度ソースにつけることが衛生上の問題となることから、「二度づけ禁止」の掲示が出されています。揚げ物の食べ過ぎによる胃もたれを防ぐためにキャベツが備えられています。この備え付けのキャベツをスプーン代わりに使い、串カツのソースを容器からすくってカツにかけることもできます(※5) 私たちも、このような新世界を発祥地としている串カツを食べてきました。私たちが訪れた串カツの店は「じゃんじゃん」という名前の店でした。串カツじゃんじゃんは6店舗ありますが、そのうちの新世界本店を訪れたことになります。芸人さんや有名人の方の色紙もたくさん飾られており、その人気を実感できました。
 私は大阪人ですが、串カツをあまり食べたことがなかったので、おいしく頂きました。油ものがとても苦手でもあり、少し食べ過ぎて気分が悪くなったときに、胃もたれのために備えられているキャベツが役に立ちました。機会があれば、いろいろな串カツの食べ比べをしてみたいと思います。大阪生まれ大阪育ちではありますが、大阪をよく知っているようで知らないことがたくさんあることに気づかされました。地元である大阪についてもより深く幅広く学びたいと思いました。なお、大阪の歴史や魅力についても、周りの人や海外からの留学生たちにも伝えて行きたいと思いました。特に、和食がユネスコ文化遺産に登録されたこともあるので、新世界発祥の串カツの美味しさをも留学生たちや海外の人々に伝えたいと思いました。
 今回の大阪の地元調査を通して自己文化の魅力について改めて気づかされました。日本の中にある多様な異文化との共存共栄のみならず、自己文化内における様々な人々や物事との共存共栄もまた大事であることが理解できました。
  • 写真:串カツ