大阪市内でフィールドワークの練習を行いました

淀屋橋、心斎橋、道頓堀で調査を行いました

 今年度も7月に新しいゼミ生が配属され、森重ゼミ12期生の活動がスタートしました。このゼミでは観光資源や観光まちづくりをテーマにしていますが、新たな観光資源を見つけるには「資源を見る眼」を養う必要があります。そこで、例年実施していますが、今年も本格的なフィールドワークの前に、淀屋橋、心斎橋、道頓堀でフィールドワークの練習を行いました。これらはいずれも人名が由来になっていますが、こうした由来を辿ることで、資源を見つけるための視野を広げることができます。
 事前に3つのグループに分け、それぞれがあらかじめ淀屋や岡田心斎、安井道頓の由来やゆかりの地などを調べ、現地調査で見る資源や当日の旅程を考えたほか、写真撮影の方法などの実習を行いました。そして、11月5日(土)に実際に現地調査を行いました。当日は天候にも恵まれ、気持ちよく調査できたほか、それぞれのグループが新たな可能性を見つけ出していました。当日参加したゼミ生がその成果を以下で報告しています。
 今回の練習でさまざまな成果を得たようですので、これから行う本格的なフィールドワークに生かして欲しいと思います。(森重昌之)

当日のフィールドワークの様子

  • 「一粒の光」での調査の様子

  • 緑地西橋での調査の様子

  • 「長堀の石濱」での調査の様子

  • 通天閣下の残念石での調査の様子

  • 「残念石の庭」での調査の様子

  • 当日参加したゼミ生で記念撮影

参加したゼミ生の報告

過去と現在を合わせた淀屋橋の資源
 国際観光学部2年 宮本柚人

 私たちは11月5日、大阪市にある淀屋橋へフィールドワークに行きました。このフィールドワークでは、淀屋橋と江戸時代の豪商「淀屋」にどのような関連性があり、現在どのような街の資源として活用されているかを調査することを目的に行いました。ここでは「淀屋について」、「実際に現地を訪れて感じたこと」、「今後どのようなことが資源になるのか」についてまとめていきます。
 まず、「淀屋について」です。江戸時代の豪商・淀屋は約20億両(現在の貨幣価値で約200兆円)の総資産に加え、33,000平方メートルもの広さを持つ屋敷を所持する大金持ちの中の大金持ちでした。全国の米相場の米市を設立し、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へ発展することに大きく寄与し、「淀屋の米市」とも呼ばれていました。しかし、国家権力をも揺るがすほどの大金持ちであった淀屋は、1705年に全財産を没収される闕所によって没落しました。
 私たちは実際に淀屋橋駅に行き、淀屋がその地に残した資源を調査しました。淀屋橋駅を降り、地上に続く階段を上ると、早速「淀屋の屋敷跡」の石碑を見つけました。しかし、私たちが訪れた時には工事が行われていたため中が見えない状態で、詳しい調査はできませんでした。ただ、米俵を担ぐ昔の人が掘られた像が見えました。その後、土佐堀川に架かる淀屋橋を渡り、その先の堂島川に架かる大江橋も渡って西に曲がり、5~6分ほど道なりに進みました。そこには「一粒の光」という大きな米粒の像と「稲に遊ぶ子供」という稲束を持ったモニュメントがありました。たまたま「一粒の光」の前を通った子どもが「ママ、大きなお米がある」と、大きな声で嬉しそうに話しかけている様子を見かけました。とても大きな米粒で迫力があり、そこを通る人々の足を止め、ひと際注目を浴びているように感じました。
 淀屋は江戸時代の米市場に大きく携わったため、淀屋橋では「米」のモニュメントが多く建てられており、その周りにはさまざまな浮世絵や過去の淀屋橋の地図が記されていました。上記の場所以外にも大阪市役所、中之島図書館、東洋陶磁美術館、中央公会堂にも行きましたが、いずれも建物や中にある物がとても古く、歴史書物の展示場所もあったため、この地は「レトロ」を大切にしており、それを資源にしているのだと感じました。今はこのレトロな建物に昔はできなかったプロジェクションマッピングを施すという、過去と現在を合わせたかのようなイベントも開催されています。今後、淀屋橋では川沿いに位置するこのレトロな街並みがさらに資源として磨き上げられるのではないのかと感じました。

昔の情景が浮かぶ観光資源の調査
 国際観光学部2年 西村虎流

 11月5日にグループに分かれてフィールドワーク行いました。今回のテーマは淀屋橋、心斎橋、道頓堀の3つの地域と、各地域の由来となっている人物に関連する観光資源を見つけるというものです。私たちのグループは岡田心斎が由来となっている心斎橋を担当しました。私たちは緑地西橋、長堀の石濱、長堀橋跡記念碑、ガス灯の4つを観光資源とし、現地に出向き調査を行いました。その1日を報告します。
 まず、緑地西橋に向かいました。緑地西橋は鶴見緑地駅から徒歩5分ほど歩いたところにある鶴見緑地公園の中にありました。この緑地西橋は、もともと長堀川に架かっていた旧心斎橋であり、撤去されてからは場所を転々と移し、現在の場所に至ったそうです。旧心斎橋の写真と照らし合わせてみると、橋の支える構造自体は異なるものの、外見は旧心斎橋と遜色なく、当時の面影が残された貴重なものでした。
 次に、長堀の石濱に向かいました。場所は長堀通の地下街であるクリスタ長堀にありました。長堀の石濱というのは、壁に設置された大きな図画のことです。この図画には、江戸時代に心斎と仲間の町人が手掛けた長堀川の開削をきっかけに商工業が大いに栄えていた頃の様子が描かれていました。そのすぐ横の壁には、昔長堀川に使われていた石垣が埋め込まれており、石濱がある場所から上を見上げると、天井が通路一面ガラス張りになっていました。そこから見上げた景色は、当時この場所を流れていた長堀川を連想させるものとなっていました。
 そこから、長堀の石濱付近にある階段を上り、目の前の横断歩道を渡った先にある長堀橋跡記念碑に訪れました。これは長堀川に架けられた最初の橋である長堀橋の記念碑です。現在、橋自体は残されていないものの、こういった記念碑が建てられており、記念碑の裏には長堀橋の歴史が刻まれていました。
 最後に心斎橋商店街のアーケードにあるガス灯に訪れました。このガス灯は明治42年の石橋だった頃の心斎橋に設置されていたガス灯を一部修復し、復元したものだそうです。そのすぐ下の土台部分には、心斎橋の歴史や移り変わりが描かれたレリーフ、ガス灯の原理と歴史について刻まれていました。
 今回のフィールドワークでは、心斎橋と由来となった人物に関する観光資源について調査を行いました。調査した観光資源となるほとんどの場所で当時の面影が残されており、周りの景色を見て過去の情景が頭に浮かぶものになっていました。今回の調査から、心斎橋付近にあるものだけでなく、その由来となった人物を調べると、緑地西橋のような離れた場所に存在するものも関連する資源として捉えることができることを学びました。これからの活動では、その地域周辺のものだけを対象にするのではなく、地域の歴史や関連するものにも目を向けることを意識し、取り組んでいきます。

岡田心斎と心斎橋の関連を学んだフィールドワーク
 国際観光学部2年 山田雅也

 私たちは11月5日(土)、岡田心斎と心斎橋に関連する場所として、心斎橋のガス灯とレリーフ、鶴見緑地公園の緑地西橋、クリスタ長堀とその中にある長堀の石濱、長堀橋駅の駐輪場近くにある長堀川跡記念碑を訪れ、フィールドワークを行いました。
 フィールドワークに行く前、10月26日と11月2日に岡田心斎がどのような人物なのかについて調べ、心斎橋との関係性や関連する場所を調べ上げました。私はよく心斎橋に行くことがあるので、地形はある程度知っていましたが、心斎橋についてもっと詳しくなりたいと感じたので、それにまつわる歴史や場所を調べようと考えました。
 まず、岡田心斎について調べました。岡田心斎は大坂の陣後の大坂の復興を担った、大阪ミナミの繁華街・心斎橋の由来となった人物です。心斎は大坂の陣を絶好の商機と捉え、商人仲間とともに徳川方に味方し、兵糧や武器の調達に奔走しました。見込んだ通りに徳川方は勝利しましたが、心斎らは調達に財産を使い果たし、困窮してしまいます。不憫に思った2代目将軍徳川秀忠は大坂の復興事業を彼らに任せ、資産をつくれるように取り計らいました。元和2(1616)年、心斎は焼け野原となった大坂へ移り、そこで手がけたのが川の開削事業でした。東堀から西海へと通じる長堀川を6年がかりで開削し、運河の両岸に町家を建ち並べ、橋を架けて自身の名を冠しました。
 次に、11月5日に調べていた緑地西橋という橋に行きました。この橋は明治時代の鉄橋の心斎橋が移設されたものです。鶴見緑地公園にあり、私たちが訪れた時には家族連れや若い人びと、高齢の人びとが公園や広場にいて、散歩にも良い場所でした。実際に訪れると、橋は思ったよりも大きく、昔からあるような橋には見えないくらい綺麗でした。紅葉は始まっていなかったですが、紅葉が綺麗に見えるように思いました。
 次に、クリスタ長堀の水時計広場にある「長堀の石濱」というレリーフを見に行きました。江戸時代、この辺りは石濱と呼ばれ、日本中の名石が集められ、加工されていました。その様子は摂津名所図会に風景画と文章で紹介されています。このレリーフの横には、長堀川が流れていた時の護岸の石垣に使われていた石が壁面に埋め込まれていました。レリーフから上の窓を見ると、綺麗な青いガラスがあり、昔そこに長堀川が流れていたことを彷彿させるような印象を受けました。
 その後、長堀橋跡記念碑という場所に行きました。長堀橋は長堀川に最初に架けられた橋で、江戸幕府が管理する公儀橋のひとつでした。長堀橋駅の駐輪場の近くあり、見つけにくい場所にあるのですが、1979年につくられた歴史を感じられる雰囲気がありました。
 最後に、心斎橋にあるガス灯と、江戸時代の心斎橋を伝えるレリーフを見に行きました。ガス灯は明治42(1909)年に完成し、現在のガス灯はモニュメントとして再現されたもので、両端には当時の橋柱も据えられていました。難波側のガス灯の下には江戸時代の心斎橋を伝えるレリーフがあり、そこには江戸時代の木橋と明治時代の鉄橋、明治42年の石橋を描いたレリーフがありました。
 今回、心斎橋を訪れてみて、普通に歩いているような橋や道は岡田心斎のような商人の努力があって、今のような姿になり、レリーフなどが残っていることがわかりました。そして、それが観光資源になっており、さまざまな人に興味を持たれるのだと感じました。

安井道頓を中心とした観光資源
 国際観光学部2年 藤井励

 私たちは11月5日に淀屋橋と心斎橋、道頓堀のグループに分かれ、フィールドワークを行いました。その中で、私たちのグループは安井道頓と道頓堀の関係について、またその場で見た資源をどのように観光と結びつけられるのかということを調査してきました。今回の調査の中で、私たちは3つの場所を調査してきました。
 1つ目は通天閣の下にある「残念石」を調査しました。残念石とは、大坂城で積み上げる予定であった石で、実際に使われなかった石のことを言います。日本橋北側に安井道頓道ト紀功碑というものがあり、それに残念石が使われていたことを知り、さらに事前調査していくと、通天閣の下や大阪国際がんセンターの玄関前などにも置いていたことがわかりました。しかし、なぜこれらの場所に設置されたのかは資料がなかったので、よくわからないままでした。
 2つ目に調査した場所は国立文楽劇場、大阪松竹座です。この2つの施設を調査した理由は、道頓堀が開削された後、芝居小屋がその周辺につくられ、それによって集客が増えたからです。さらに、その後道頓堀をより賑やかにするために飲食店が建設され、日本最大の食の町となったという歴史があったことを事前調査で理解しました。また、「食い倒れ人形」が道頓堀周辺に設置されていますが、これは道頓堀に飲食店が設置された当時、その場所で食べ過ぎてお金がなくなってしまうという状況による名残であることも理解できました。
 3つ目に調査した場所は千日前にある松林庵(三津寺千日前墓地)です。ここには、安井道頓だけでなく、浄瑠璃艶容女舞衣で有名な三勝・半七の供養塔など、船場の著名な商人や上方芸人の墓碑が数多く祀られていていました。
 これらのフィールドワークから私が考えたことは2つあります。1つ目は、大坂夏の陣は大阪城周辺で行われたことから、その最善を尽くしたきっかけの証拠として、安井道頓道ト紀功碑に残念石が使われているのでないかと考えました。もう1つは、道頓堀の周辺に芝居小屋や飲食店など施設ができたおかげで、現在の賑わいが生まれ、大阪でも有数の繁華街に発展したのではないかと思いました。
 これらを踏まえ、私は安井道頓と観光と結びつけることとして、「残念石を巡るツアー」を提案できるのではないかと考えました。理由として、今回紹介した周辺地域には歴史があり、それにより現在の大阪が成り立っているということを知り、それが多くの人びとに魅力になると思ったからです。