1年生が初めてのフィールドワークに挑戦しました

大阪市内に橋の遺構を探るフィールドワークを行いました

 国際観光学部の学びの中心の1つに、フィールドワークがあげられます。2年生後期から始まる専門ゼミでは、フィールドワークを実施する機会が多いことから、1年生の大学入門ゼミではその練習を行っています。そこで、今回は大阪市内にかつて架かっていた橋の遺構を探るフィールドワークに挑みました。
 橋の遺構を探るといっても、現在は架かっていないので、まず手がかりを探さなければなりません。そこで、大阪シティバスの路線図から「橋」の名称がついたバス停をゼミ生で手分けしてピックアップしました。すると、橋の名称がついたバス停が100か所以上あることがわかりました。このことから、大阪がかつて「八百八橋」と呼ばれ、運河が市内各所に巡っていた様子をうかがい知ることができました。
 次に、現在も架かっている橋と現存しない橋をすべて調べた後、現存しない橋をゼミ生が1つずつ選び、その遺構を現地調査しました。かつて橋が架かっていた場所には何も残っていないことが少なくありません。しかし、その近くに親柱が残されていたり、橋の由来が書かれた看板が建てられていたりするなど、現地に行くとその歴史が感じられました。
 その後、授業で現地調査の成果をまとめ、1人ずつパワーポイントを作成して発表しました。この経験を活かし、今後のフィールドワークに役立ててほしいと思います。今回のフィールドワークを通して学んだことを、以下で参加したゼミ生が報告します。(森重昌之)

当日の現地調査の様子

  • 桜橋交差点付近にある桜橋の石碑

  • 桜橋から少し離れた場所にある曽根崎川跡の案内板

  • 橋の跡が感じられない賑橋交差点

  • 難波八坂神社に残る賑橋の親柱

  • 橋の遺構調査後に行った地下鉄を巡る調査の様子

  • 現地調査終了後の集合写真

参加したゼミ生の報告

名前だけ残った桜橋
 国際観光学部1年 大畑安規

 今回のフィールドワークの目的は、①橋の名前がついたバス停・場所に行き、その場所の歴史について知ることでした。そこで、私は今回桜橋に行き、どのように残っているのかを調べました。そして、桜橋の歴史について調べ、その場に実際に行って調べたことと照らし合わせ、昔のことを知ることにしました。
 フィールドワークに行く前に、桜橋の名前の由来、橋が架けられた時期、橋が架かっていた川の名前、昔に存在した場所を資料で調べました。その結果、橋の名前の由来は、この付近の川堤にあったサクラの古木が倒れて橋の役割をしたことから、「桜橋」と名付けられたと言われていることがわかりました。また、橋が架けられた時期は元禄8年、橋が架かっていた川の名前は曽根崎川(通称:蜆川)であることも知りました。オオサカマニアによると、「江戸時代は日本経済の中心だった堂島と繁華街を結ぶ橋として、明治時代は市街地から大阪駅までのルートとして、大阪の繁栄に欠かせない橋として活躍しました」と記されていました。時代によって桜橋の活用方法が違い、地域の発展には橋を利用して物を運んだり、人の行き来があったりすることが必要であったと考えられます。
 現地に行くと、桜橋は残っていませんが、道路に「桜橋」の標識が残っており、その近くには桜橋のバス停がありました。その他にも、ホテルや病院にも「桜橋」という名前が付けられていました。桜橋交差点の名称も残っていますが、桜橋自体は交差点よりも50mほど南の四つ橋筋上に位置していました。四つ橋筋を進んでいくと左手に大きなビルがあり、その脇に「元桜橋南詰」の石碑が置かれていました。その石碑から明治42年の「北の大火」により焼失しことがわかりました。桜橋交差点の近くには北新地駅(計画段階での仮称は桜橋駅)があります。桜橋交差点の付近には「大阪駅ものがたり」という大阪駅の歴史について書かれたものが置かれていました。
 今回のフィールドワークを通して、大阪でも知らないこと(桜橋がどこにあったか、川が流れていたかなど)がたくさんあり、歴史について調べると、石碑や掲示板などで記録されていることがわかり、昔の状態を学ぶことができました。土地の名前には由来があり、その由来を知ることで、どのような川が流れていたか、かつて海に浸かっていたかどうかなどを知る一つの情報源になると考えました。昔は川が多く、架けられていた橋もたくさんあったため、大阪には橋のついた名前がたくさんあると考えました。このように、名前には歴史が含まれていて、その場所を知るものになることを学びました。

賑橋から考察する大阪に架橋跡が多く存在する理由
 国際観光学部1年 阪野広稀

 今回のフィールドワークの目的は、大阪市内にあるかつて架かっていた橋の場所や、そこを通っていた川の場所を探り、大阪市内の風土や歴史についての理解を深めることです。それに当たって、私は賑橋について調査を行いました。
 賑橋の概要について、図書室の資料によると、賑橋は「明治時代後期から周辺の開発が進み橋の需要も増加したため、市電九条高津線の第三期線の事業として架橋された、全長20.2メートル、幅員が21.9メートルの鋼板桁橋である」と記載されていました。また、賑橋の架橋時期については、同資料によると「大正3年(1914年)に架けられた」と記載されていました。さらに、賑橋の下を流れていた河川については、大阪市の古地図によると「難波入堀川」と記録されていました。
 また、難波入堀川の概要について、図書室の資料によると、「享保18年(1733年)道頓堀の湊町付近から難波御蔵への水運をよくするために開削された運河である。川の大きさは、道頓堀川大黒橋の西から御蔵まで全長800メートル、幅14.5メートルであった。その後、難波入堀川は次第に汚染が進んだため、明治11年(1878年)に南側にあった鼬川と連絡し、難波新川と呼ばれるようになった。しかし、戦後に入ると川に土砂が堆積して水質が悪化し、運河としての利用も減少していたため、昭和33年(1958年)には埋め立てられた」と記載されていました。
 このことから、賑橋は鉄道事業のために鋼板で架けられた橋であり、比較的新しい橋だということが理解できました。また、難波入堀川が運河として機能していた期間は約220年余りであり、他の河川よりも短命に終わったことも理解できました。
 事前準備の後、実際に賑橋が架かっていた場所に、大阪市営バスの停留所をもとにして赴きました。賑橋の位置は、御堂筋と千日前通が交差する場所であり、近鉄大阪難波駅の向かい側にあります。しかし、その場所には賑橋の架橋跡は見当たらず、大阪シティバスの賑橋停留所があるだけでした。そこで、賑橋の痕跡がどこにあるのか、大阪難波駅の駅員に尋ねてみました。すると、難波八阪神社に賑橋の欄干があることがわかり、難波八阪神社に向かいました。
 難波八阪神社は、大阪メトロ御堂筋線大国町駅から北に550メートルほど行ったところにありました。実際に難波八阪神社に行ってみると、社務所の右側に賑橋の欄干が保存されていました。また、欄干の側面には「旧難波入堀川(新川)賑橋ニ用ヒアリシモノ昭和三十年春埋立ニ際シ当社内ニ移ス」という記述がありました。このことから、賑橋は昭和30年(1955年)春頃に撤去され、難波入堀川も同時期には大部分の埋立が完了したと考えられます。そして、橋の欄干は昭和39年(1964年)から始まった阪神高速道路の建設に際し、移動せざるを得なかったため、近くの神社に保存したと考えました。
 江戸時代の大阪は運河が発達していたため、橋が多く架けられていましたが、明治時代以降になると鉄道網が大阪市内に敷かれ、さらに高度経済成長期になると高速道路や御堂筋、堺筋といった道路が拡幅整備されました。そのため、運河の需要がなくなり、次第に川の埋立と橋の撤去が進み、現在はバスの停留所にのみ面影が残っています。しかし、橋の欄干や石碑は今も数多く保存されており、大阪が「八百八橋」の都市であったことを後世に伝えていることが理解できました。

信濃橋の歴史を通したフィールドワークの重要性
 国際観光学部1年 古元拓

 フィールドワークの目的は、実際に現地に行き、インターネットでは出てこないような情報や信濃橋の過去から現在への変化について調べることと、集めた情報から関連づけて大阪の歴史について学ぶことでした。
 フィールドワークに行く前に準備したことは、主にインターネットで情報を集めましたが、その中で信濃橋の歴史について学ぶことができました。OSAKA CITYのサイトによると、「信濃橋は、古くに富田町橋、その後は問橋と呼ばれ、元禄年間(1688~1704)の記録に信濃の名がみられた。橋の大きさは橋長13間1尺、約25.9m、幅員2間、約3.9mである。永瀬七郎衛門によって開削されたと伝えられ、土佐堀川から道頓堀川にかけて大阪の中心部を南北に貫流する川である西横堀川に架けられていたが、阪神高速道路の建設が進められる中、昭和39年から同46年にかけて西横堀川が埋め立てられるとともに信濃橋はその姿を消した」と記載されていました。信濃橋があった場所は、大阪市西区西本町1丁目で、本町駅から約300メートルの位置にあります。その場所には「信濃橋」の文字が刻まれた石碑も建てられており、信濃橋、西横堀川の歴史についても書かれていました。フィールドワークに行く前に調べてわかったことは、大阪全体で見ればそれほど大きな橋ではなく、現在では埋め立てられている橋でも、多くの歴史が含まれているということが理解できました。
 当日のフィールドワークで行ったことは、昔の橋の写真と実際に現地の様子を見て、どのようになっているかを見比べました。信濃橋があった場所には、実際に石碑が建てられており、信濃橋が西横堀川に架かっていたことや、どのような理由で橋がなくなったか、いつまで橋があったなど、さまざまな信濃橋の歴史が書かれていました。インターネットで見た情報だけでなく、自分の目で見たことで歴史を感じることもできました。
 今回のフィールドワークを通して学んだことは、インターネットで調べた情報と実際に現地へ行って自分が見たものとの違いをもとに、信濃橋の歴史や橋に関係するもの、大阪の歴史に触れることができた点です。また、直接観察することで、インターネットでは見つけることのできない発見もあるかもしれません。新しいことを発見すれば、また疑問が出てきて、調べることにつながると感じました。この先もフィールドワークに行くことがあると思いますが、インターネットで調べた情報だけに頼るのではなく、インターネットには書かれていないことを自分で発見できるよう、積極的に探していこうと感じました。