ゼミ3年生が吹田市北千里でまち歩き(水辺コース)

 今年度もキャリアゼミで「フットパスとまちづくり」のテーマで吹田歴史文化まちづくり協会と連携して活動を開始しました。
 今年度は、吹田市内でまだ学生達が歩いていない北千里水辺コース、北千里公園コース、岸辺コースについて、5人ずつの3チームに分かれて2回ずつ歩きます。1回目のまち歩きでは、吹田歴史文化まちづくり協会の吹田まち案内人の方(吹田市民でもある)にガイドとして学生たちと一緒に歩いていただき、2回目は学生たちだけで新しい発見を目指して歩きます。まち歩きを通してフットパスという観点から地域活性化や交流人口の増加に向けた取り組みを提案していきます。2018年4月21日(土)にゼミ3年生5人が吹田市北千里水辺コースを1回目のまち歩きしました。今回は、歩いた学生たちからの報告です。

緑あふれるまち北千里
 3年生 大橋 麻実

 4月21日に吹田市でまち歩きを行いました。私たちのグループは、北千里「水辺コース」を吹田まち案内人の佐藤さんにガイドしていただき、千里ニュータウンの藤白台と古江台を歩きました。
 千里ニュータウンは1958年に計画がスタートし、1962年から入居が始まりました。吹田市域の8住区、豊中市域の4住区の合わせて12住区から構成され、2012年にまちびらき50年を迎えました。緑が豊かなニュータウンで住宅地は約41%を占めており、戸建て住宅地と集合住宅地はほぼ同じ規模です。
 北千里駅から近くは集合住宅が多く建ち並んでいました。壁面にはA・B・C・Dのいずれかが記載されていて、Aが大阪府住宅供給公社、Bが大阪府、CがUR都市機構、Dが社宅という風に区別されています。ただ近年ではこの区別によって嫌な目でみられたりすることから記載されなくなってきているそうです。駅から少し離れたところには戸建て住宅が建ち並び、どれも大きな家ばかりでした。戸建てが駅から離れている理由は、以前は集合住宅で暮らす人たちよりも車を所有していることが多かったからだそうです。

 はぎのき公園や水路ぎわにはメタセコイヤの木が多くありました。メタセコイヤは生きた化石と言われ、万博のCMが放映された際にメタセコイヤが映り有名になったそうです。はぎのき公園ではメタセコイヤによく似たラクウショウ(落羽松)の木もありました。また、はぎのき公園内には千里ニュータウン建設前からある古江稲荷神社もあり、今は地元の方が管理されているそうです。
 線路横を通る千里けやき通りと呼ばれる道は大阪万博が開かれた際にゾウが通った道だと佐藤さんは教えてくださいました。20頭のゾウがタイから船で神戸港まで来て、そこから歩いてここまで移動してきたと聞きとても驚きました。万博期間中に、1頭の赤ちゃんゾウも生まれたそうでゾウの数は21頭に増えていたそうです。
 千里けやき通りを東方向に延びる三色彩道と呼ばれる坂道はアメリカフウ、タイワンフウ、トウカエデの並木道になっていて秋には真っ赤に紅葉し、写真をみせてもらいましたがとても綺麗でした。紅葉の時期にまた来てみたいなと思いました。この三色彩道という名前は当時中学生だった女の子が考えた名前だそうです。
 今回私たちは阪急北千里駅から大阪大学吹田キャンパスまで佐藤さんに案内していただきながら、とても楽しく歩くことができました。まち歩きを行う前に想像していたよりも北千里は緑が多いと感じました。桜やハナミズキ、ケヤキ通りの紅葉など四季折々で楽しむことができると思います。公園もいくつかありましたが、人影が少なかったのでもっと多くの方が利用しやすいようにしていく必要があるのではないかと感じました。また様々な見どころがあるのに対し、カフェなどの休憩する場所をあまり見かけなかったので、それらが増えればよいのではないかと感じました。次回、5月20日に自分たちだけで歩くときには、より多くのところに目を向け、新しい発見ができると良いと思います。

緑豊かな千里の街並み
 3年生 上田 綾子

 私たちは4月21日に吹田市の北千里水辺コースのまち歩きをしました。最初に、南千里駅に隣接している千里ニュータウン情報館に行きました。ここでは、千里ニュータウンのまちづくりの歴史についての資料が多く展示されていました。昔と今が比較できる写真からこの約50年で多くの集合住宅などの建物ができ発展してきたことが分かりました。また年表もあり、東京オリンピックが開催された昭和39年に古江台・藤白台に入居開始、昭和48年にはオイルショックが起きたことによりトイレットペーパー騒動が起きたなど、世の中の出来事と照らし合わせて町の変化をみることができました。私たちが今回歩いた藤白台は千里ニュータウン最大の住区で、古江台は唯一開発前に10戸弱の旧集落があった住区であるというような、まちの特徴や由来などが分かりやすい説明があり、それぞれの地区に異なる特徴があることを知りました。
 阪急北千里駅で吹田まち案内人の佐藤さんと合流しスタートしました。まず北千里駅は世界初の自動改札機を設置したところだと聞いて驚きました。千里ニュータウンは多くの集合住宅が建っているのが印象的です。集合住宅には、供給主体を表すA.B.C.Dといった文字が記載されていたようですが、この番号によって子供が差別を受けるということで近年では記載されない傾向にあり、住民の交流の機会を増やすため平行配置ではなく囲み型配置にしているそうです。アルファベットには、Aは大阪府住宅供給公社、Bは大阪府、CはUR都市機構、Dは社宅といった意味があって配置にも工夫していることを理解できました。空地は車社会の到来により駐車場になってしまったそうですが、わざと原っぱを残している所もあるようで、集合住宅が多い中に自然を残しているところが良いと感じました。
 次に、はぎのき公園に行きました。千里ニュータウン建設前の唯一の神社で地元の人が管理しているそうです。すぐ隣には池やベンチもあり、のんびり過ごせる良い場所だと感じました。ここには、生きた化石と言われるメタセコイヤがたくさん見られました。水路に沿って生えていてとても緑がきれいで癒される道でした。

 千里けやき通りは大阪万博でゾウが通った道で、近くには水路もあり桜が咲くところもありました。休憩もかねて藤白公園に行きました。池の形がピアノのように見えることから通称ピアノ池と呼ばれるそうです。昔は建物が映って鍵盤のようでよりピアノに見えたという話を聞きました。池には亀や鯉、鳥など生き物がたくさんいて、近くには広場や公園もあり広い所でした。
 三色彩道は北摂の紅葉の名所で、今の時期は緑でまた良い感じでしたが、紅葉時の写真を見たところとてもきれいだったので、特に印象に残っています。吹田に紅葉の名所があるなんて知らなかったので、紅葉の時期に見に行きたいと思いました。近くにある古代のパワースポットである水遠池は工事中で見られなかったです。
 フィールドワークを行って吹田には深い歴史があることを知りました。住宅街がたくさんある中、四季を楽しめる紅葉や桜、緑が豊かで良いところだと感じました。普段吹田に来ることがないので吹田のことを知る機会になりました。次の自分たちだけで行うフィールドワークでは何を発見できるのか楽しみです。

これからのまち歩き
 3年生 井手 駿介

 4月21日に吹田まち歩き案内人の佐藤さんに北千里の歴史を説明してもらいながら案内していただきました。吹田を歩いていて思ったのが、私の住んでいる町と景色が全然違うことです。私の家の近所はコンビニや飲食店などがあるのに比べ今回歩いたところにコンビニなどはなく、たくさんの自然があり同じ大阪に住んでいて景色がこんなにも違うのだと感動しました。また、吹田に建っている一軒家やマンションの外観がとても綺麗で私もいつか吹田に住みたいと思いました。
 阪急北千里駅からまち歩きが始まりました。この駅では1967年に世界初の自動改札機が設置されたと聞き、世界初が大阪だったなんてと驚きました。歩いていると、集合住宅の建物にA、B、C、Dといった記号が書いてあり、どういう意味があるのか聞くとAは大阪府住宅供給公社、Bは大阪府、CはUR都市機構、Dは社宅を表しており、そのアルファベットにより住んでいる人の身分が分かり差別されるといった問題もあり、今では記載されていないそうです。また吹田にはたくさんのメタセコイアがあり、メタセコイアの歴史を聞くと、絶滅したと思われていたメタセコイアの木が中国で発見され、その後アメリカの学者がアメリカに種子を持ち帰り、1949年に日本に送られたということでした。水路ぎわのメタセコイアが歩道に美しい景観を作っていました。千里けやき通りでは写真でしか見たことがありませんでしたが、大阪万博でゾウが通った道で、そこを実際に歩き、ゾウが神戸からここまで歩いてきたことを想像しました。またゾウが日本に来る時とタイに帰る時と数が違うという話を聞きました。なぜ違うのか理由を聞くと日本で一頭のゾウが出産したからだそうです。私はタイからゾウが来たことだけではなく、こういった話も知っていたら面白いなと思いました。

 今回のまち歩きでもっとも印象に残ったのは三色彩道です。三色彩道は季節によって緑、赤、黄と色が変わることから三色彩道と名づけられたそうです。私たちが行った時は紅葉の季節ではなかったので紅葉は見ることができませんでしたが、綺麗な緑葉になっていて美しい並木道でした。次は紅葉の時季に訪れたいと思いました。
 今回、北千里水辺コースを説明・案内してもらって感じたことは場所一つ一つに歴史があり、それらを学びながら歩くのは、ただ景色を眺めながら歩くよりも思い出に残るということです。近年、若者の新聞・回覧板などの利用率が下がる中、こういったまち歩きの案内を広めるのは難しいと思います。しかし、SNSに町の景色を投稿することで、その場所を訪れたいと思う訪問者を増やし、ボランティアではなく、まち案内する民間企業を設立することによって、若い人たちにもまち歩きの案内を受け継いでいくことができるのではないかと思いました。また、町に人が集まることにより、まちが発展していくのではないかと思いました。

北千里のまち歩きをして
 3年生 川本 策也

 私たちは4月21日(土)に北千里のまち歩きを行いました。まず、南千里の千里ニュータウンプラザで展示を見ました。次に、北千里駅に向かい、マンション群やニュータウンの近隣センター、はぎのき公園や古江台小学校を通り、水路ぎわのメタセコイヤを見て、千里けやき通りを歩き、藤白公園や三色彩道、水遠池を通って、大阪大学吹田キャンパスに行きました。実際に吹田市でまち歩きをしてみて、学んだこと、感じたことをまとめます。
 初めに、千里ニュータウンプラザで千里ニュータウンの歴史を学びました。戦後の高度経済成長期に多くの人々が地方から都市へと集まってくることで、都市では住宅需要が増大し、既成市街地周辺は十分な基盤整備がなされていないまま、スプロール的(スプロール:都市の郊外に無秩序・無計画に宅地が伸び広がっていくこと)に開発されていきました。このような状況に対応して、良好な住環境を備えた大量の住宅を供給するために計画・開発されたのが千里ニュータウンです。千里ニュータウンは、大阪府と多くの専門家が総力をあげて取り組み、新しい理論と提案に基づいて作られた先進的・総合的な「実験都市」でもありました。
 次にまち歩きをしました。まず、阪急の北千里駅が世界初の自動改札機設置場所ということを初めて知りました。1967年の開業と同時に設置され、当初は定期券用と普通乗車券用とで改札の方式が異なり、定期券はパンチカード方式、普通乗車券は磁気券(バーコード)方式を採用していました。

 マンション群では各マンションにそれぞれ千里ニュータウン独自の配置・記号が描かれていました。はぎのき公園では千里ニュータウン建設前の唯一の神社があり、古江台小学校では低学年と高学年で校舎が違うというシステムを導入しています。また、メタセコイヤは水路ぎわに咲き並ぶ落葉樹のことで、当初、「化石」として発見されたために絶滅した種とされていましたが、1945年に中国四川省磨刀渓村の「水杉」が同種とされ、現存することが確認されたことから「生きている化石」と呼ばれることも多いです。千里けやき通りでは、大阪万博の時にゾウがこの道を歩いたと聞き驚きました。三色彩道では、秋になると紅葉がとても綺麗になる道です。そして、大阪大学吹田キャンパスでは、食堂や付属の病院をまわってみて、あまりの敷地の広さや施設の多さ、何よりも学内に付属の病院があることに驚きました。また、大阪大学吹田キャンパスは日本で8番目に創設された国立総合大学であるそうです。
 最後にまち歩きをしてみて、吹田には多くの公園や池、ゾウが通った道や紅葉が綺麗な道があり、フットパスをするには最適な場所だと思いました。また千里がニュータウン化されたことで住宅がかなり増えたと思いますが、その地域の自然や公園をなくさずに、住宅化したのは良い発想だと思い、だからこそとても住みやすい街なのだと感じました。

千里ニュータウンの歴史~フットパスを通して~
 3年生 薮内 拓真

 千里ニュータウンは吹田市・豊中市に跨り、豊中市は新千里東町・新千里西町・新千里南町・新千里北町、吹田市は佐竹台・高野台・津雲台・竹見台・桃山台・古江台・藤白台・青山台の合計12箇所の地区からなります。開発主体は大阪府企業局で、開発面積は約1,160ヘクタール、計画人口は150,000人。 日本最初の大規模ニュータウン開発で、開発開始後の1963年に制定された新住法(新住宅市街地開発法)の初適用など、その後の各ニュータウン開発に大きな影響を与えました。千里ニュータウンは全体面積のうち、道路、公園緑地といった公共施設用地が約40%と大変多く、ゆとりある空間、緑豊かなニュータウンを特徴づけています。また、住宅地は約41%を占めており戸建て住宅地と集合住宅地はほぼ同じ規模となっています。 
 私たちは、北千里駅に集合し、フットパスを通して千里ニュータウンの歴史をガイドさんに学びました。私たちのルートは阪急北千里駅→千里ニュータウンマンション群→ニュータウンの近隣センター→はぎのき公園→古江台小学校→水路際のメタセコイヤ→千里けやき通り→藤白公園→三色彩道→水遠地→大阪大学吹田キャンパスへ行く所要時間約2時間のコースです。私がその中で興味が沸いたものを『千里ニュータウンウォーク・ガイド』を参考にしながら紹介していきます。
 一つ目は、千里ニュータウンの団地の配置です。千里ニュータウンでは団地の住棟配置に工夫が見られます。団地の住棟を配置する方法は、大きく「平行配置」と「囲み型配置」(コの字型配置)の2つに分けることができます。
 「平行配置」は東西に細長い住棟を平行に配置することで、全ての住戸を南面させ、日照を確保できるという利点があり、千里においては主に公団(現・UR都市機構)の団地で採用されました。南側に部屋を確保するため、階段室の入口は北側に設けられることになります。全ての住棟へは北側から入るため、隣り合う住棟の人々が接触する機会が少なくなってしまいます。そこで千里津雲台団地などでは、北側に階段室の入口がある住棟と南側に階段室の入口がある住棟(北入りタイプと南入りタイプの住棟)をペアにして配置することで、「平行配置」でありながら2つの住棟の住民が広場で交流できる工夫がなされました。
「囲み型配置」は住棟で囲んだ中庭を作り出すことで、居住者の交流・活動の場を確保できるという利点があります。千里においては、主に府営住宅の団地で採用されましたが、後期に開発された公団(現・UR都市機構)の新千里東町団地や千里竹見台団地では一部に「囲み型配置」が採用されています。なお、「囲み型配置」を採用する場合、一部の住棟が西向きとなるため、府営住宅には窓に緑の日除けが取り付けられています。
 二つ目は、千里ニュータウンの学校システムです。千里ニュータウンでは、当初、小学校と幼稚園に対して「分校方式」と呼ばれる斬新な提案がなされました。これは小学校を本校と分校に分け、本校には高学年の3年生~6年生をおき、分校には低学年の1年生と2年生をおく、さらに分校には公立の幼稚園を併設するという案でした。この提案は、教職員組合をはじめ各方面から賛成と注目を浴びたそうです。しかし、地元の吹田市と豊中市は、旧地域との教育格差が生じること、財政的にも問題があるということで、この計画はご破産となりました。
 具体的には、現在の佐竹台幼稚園は「小学校分校(低学年と幼稚園用)」として建築されたものです。しかし、昭和37年(1962年)の2学期には佐竹台小学校として開校、普通の小学校のように1~3年生が通学しました。そして、現在の佐竹台小学校校舎の建設を待って移ったのが、2年後の昭和39年(1964)4月のことでした。さらにいえば、高野台の私立玉川幼稚園も、分校として計画された用地の転用でありました。そんなわけだから、佐竹台幼稚園も玉川幼稚園も、敷地面積が千里ニュータウンでもずば抜けて大きいものでした。
 ほかにも大阪万博の時に実際にゾウが通った道や古代のパワースポット・時代劇の撮影場所があったり、生きた化石言われているメタセコイヤの木や北摂の紅葉の名所などがあったりと、万博公園やエキスポシティ以外にも魅力的な場所はたくさんあることがわかりました。
 次回の現地調査の際はもっと細かく調査し吹田の魅力を見つけようと思います。

塩路ゼミにおける最近のキャリアゼミ活動一覧